オタクのKさん

忘れたくない今の気持ちと思い出せた過去の書きだめ

限界大学生が卒業するまでの半年間の記録

 

 

 

 


某年10月、私は焦りに焦っていた。

 


「もうすぐ締切だ……」

 


1年の休学を経て、4年生として復学をした私は、卒業までの最低取得単位数まであと2つとなっていた。

読んでいる貴方は、「それなら焦る必要はない、普通に授業を受けて単位が取れたら卒業出来る」と思っただろうが、私には強敵が待ち受けていた。

 

 

 

卒論。

それは大学生最後にして最難関の課題。

私は卒業を半年後に迎えているにも関わらず、それにほとんど立ち向かえてなかった。

 

 

 

 

 

 

 


そもそも私が休学した理由のひとつは「今の精神状態では卒論に取り組めないから」であった。

3年の夏季休暇中に行われた実習で精神的にかなり不安定となり、卒論はおろか人間としての生活全てにおいての気力がほぼ失われてしまっていた。

 


まず、1日1食が常になっていた。

食事をまともに食べられず、食べることすらめんどくさいと丸3日何も食べなかったこともある。逆に1度の食事で2日分近くのカロリーを摂取したこともあった。

お風呂に入る気力はまず湧かず、最長1週間入らずに暮らした。

基本的に昼夜逆転の生活を送り、40時間近く眠れない時や15時間近く眠る時もあった。

そんなボロボロの状態では誰か知っている人に会うのが怖くなり、大学以外で外に出る時は決まって日が沈んでからだった。

 

 

 

そんな生活しか送れない身体でも、私は精神科に通院をしつつ、身体にむち打ちながらなんとか4年次へ進んだ。

高校の時に両親に心配と迷惑をかけさせてしまったこと、経済的に厳しいにも関わらず無理して県外の大学へ行かせてくれたこと、まだ未成年だった妹と弟にかかるお金の為に4年できっちり卒業して欲しいと入学時に言われたこと。それらをきちんと遂行したいがために無茶をした。

 


しかし、本格的になり始めた就活と卒論、国試対策に追われた私の身体はとうとう限界を迎えた。大学4年の夏休み明けに家から出ることが更に困難になってしまい、ほぼ1ヶ月近くキャンパスへ1度も行けなくなった。もうこれ以上大学生活を過ごすのは不可能だと私は判断し、両親へ休学を提案した。てっきり拒否されるかと思ったが、私の現状を聞いた上で両親は提案を受け入れてくれた。

すぐに担当医に相談し、意見書と休学届けを大学へ提出し、2週間ほどの審査期間を経て、晴れて私は1年間の休学を許可された。

 

 

 

 


休学となってからしばらく経ってもやはり外に出るのが怖く、生活も改善しないままで一人暮らしの部屋に閉じこもっていた。だが祖父母への現状報告のためにおこなった実家帰省を機に、休学中の殆どを実家で過ごすことに決めた。恐らく両親は久々に顔を合わせた私を見て、その生活の酷さを察して提案したのだろう。私自身もそれに同意した。

 


実家に帰ると私のやるべき事はグッと減った。料理炊事掃除買い物…今まで全て一人でやっていたことをやらなくて済む。もちろん大学へ行くことも食料調達のための強制的な外出もない。家から出られなくても平気に暮らせる。実家にいることでストレスはかなり減ったと感じた。実際食事に関してはかなり改善され、お風呂に入ることも2日に1度程度だができるようになっていた。

 


だが、実家に戻ってもどうしても定期的に一人暮らしの家に帰らなくてはいけなかった。処方された薬は長くても40日程度しか貰えなかったため、薬が切れそうになったら薬をもらいにアパートへ帰り、数日そちらにいてまた実家に戻るという、奇妙な生活をしていた。

 


近い方が遅刻ギリギリでも大丈夫だと思って選んだアパートからは大学が見え、最寄駅に向かう道のりでも大学構内の1番高い建物が目に入る。

病院で薬を受け取った後、泊まるためにアパートに向かっていく時、特徴的なデザインをしたその建物は、嫌でも見える。

私はそれを見るのがとても苦痛だった。

劣等感、申し訳なさ、悔しさ、不快感、1年後にはまた行かなきゃならない使命感と恐怖感。建物が見えた瞬間あらゆる感情が一気に胸の奥から飛び出してしまうので、私はいつも俯きながら歩いていた。

 

 

 

 

 

 

休学中、私は現実から目を逸らし続けた。

これから待ち受けている卒論にも国試にも、目を逸らし続けた(就職に関しては無理にしなくてもいいと言われたので、新卒での入社は諦めた)。

当時はただひたすらゲームやネット、睡眠に逃げていた。推しのグッズが欲しくて数ヶ月だけ倉庫でのピッキングのアルバイトもした。時々友人にあってはたわいもない話で盛り上がった。

この時ほんの少しだけでも卒論や国試に目を向けられたら良かったのにと今振り返ると思う。

だが同時にそれが困難だったということも理解出来る。

あの時、活字を読むのはかなりキツかった。読んでも内容が入らず、数行で脳が疲れてくる。新聞を読むことや読書は嫌いではなく、むしろ好きな方だったのが、この頃はよっぽど精神的に元気でない限り、活字は読めなくなっていた。

 

 

そして心は字が読めない事実も自己嫌悪や自己批判に変えてしまうので気分が辛くなってしまう。気分が辛くなるのは嫌だから活字はなるべく見ない。

そんなループが毎回起きてしまい、卒論は全く前に進めなかった。

卒論の担当教員は優しい方で何度も私の体調を心配するメッセージを送ってくださった。自分が研究室にいる日を教えてくださったり、役立ちそうな資料を代わりに集めたりもしていただいたが、メッセージに返信することや資料を読むこと、卒論を書くことにはなかなか手がつけられなかった。

 

 

 

 

 

 

そして私は卒論から逃げ続けたまま10月を迎えた。

休学は終わり、大学へ復学する。

 


この時点で卒業までにはあと2単位足りなかった。

この条件だと私のいた大学の場合、卒業のためには 

・何かしらの科目を1つ履修し単位を取得すること

・卒論を完成させること

・卒論発表会に出席し卒論の発表をすること

が必要だった。

 

 

 

履修する科目は取得しやすさを重視して好きな分野になるべく近く、テストは持ち込みOKのものにした。

しかし1度目の授業に私は行けなかった。

猛烈なだるさと、ある気持ちが強く出たために起き上がれず、家から出られなかったのだ。

だるさはもう何年も付き合ってきているのでやろうと思えば何となく対処は出来たはずだった。しかし問題はある気持ちの方だった。

それは、「大学が怖い」だった。

この気持ちに気づいた瞬間、私はまだ大学に戻ることは無理だと思った。何とかもう1年休学を伸ばしたいと両親に頼んだが、それは叶わなかった。

私の事とは別の問題が起きていたからである。

 


「申し訳ないが無理だ、去年と今じゃ事情が違う」と電話で説明された時、私は直ぐに納得出来た。いくらどんなに気持ちが沈んでいても納得出来るような事情が、その時本当に起きていたからだ。

「仕方ない、頑張るよ」と両親に伝え、何とか自分を奮い立たせることにした。正直自信はなかったし、無理かもしれないとも思っていた。だけれど、これ以上の休学は無理なのだからやるしかないと自分に言い聞かせるしか無かった。

 


だけれど、11月になっても全く筆は進まなかった。昼間に家を出て一コマだけ授業を受ける。それだけで精一杯で、授業を受けた後の2日は動けないような日々だった。書かなきゃいけないと分かっていても書けない。身体も心も辛すぎて、どうしようもなかった。担当教員も連絡をくれるが返事すら返せず既読だけつけるしかなかった。

 

 

 

もう卒論も卒業も諦めようかなと思ってた矢先、友人が連絡をくれた。

それは数ヶ月前に応募したイベントに私と友人が当選したという報告だった。その文を見た時、正直夢かと思った。

応募した時、2人で、「こんなの倍率が高すぎるだろうから当たるのはまず無理だろうね」と言いながら応募したイベントだったからだ。

まず、当たったことは素直に嬉しかった。しかし、問題はイベントの日付だった。

開催日は、卒論提出締切の2日前。

過酷すぎる日程だった。

 

 

 

 


とりあえず母親に連絡をした。イベントに当たったことと、開催日が卒論提出締切の2日前だと言うことを言うと、母親はこういった。

「イベントに行ってもいい。お金は何とかする。だけれど、卒論を必ず出してから行きなさい。」

 

 

 

その言葉を聞いて私は卒論をするしか選択がなくなってしまった。その日の時点でこのイベントはもう二度と開催されないことが分かっていたからだ。

 

 

 

 

 

 

そこからの1か月、私はとにかく必死にもがいた。

辛いと叫び続ける心を必死になだめ、恐ろしいとさえ感じていた昼間に気力を振り絞って担当教員のいる研究室に向かった。正直に卒論は全然進んでないと言っても、担当教員は私を責めることも呆れることもせず、「一緒に頑張りましょうね」と言ってくれた。

彼女自身も書かなければならない論文があるのにも関わらず、私のことを常に気にかけてくださった。追加の資料を探し出してくださった時は本当に感謝しかなかった。

 


イベントに行くための準備なども考え、自分で決めた提出日はイベントの4日前にした。

そしてそれに間に合わせるように必死に書き進めたが、その直前の1日は地獄のようだった。

朝から夕方まで、担当教員の研究室でパソコンと向き合い、卒論を書いた。家に帰っても書き続け、書き終えられたのは午前5時だった。

とりあえず眠り、昼過ぎに起きてまた大学へ向かった。

担当教員によるチェックを行ってもらい、OKをもらって急いでPC教室へ向かった。機器の不調によって何度か印刷に失敗したが、無事に綺麗に刷り上がったものを提出した。提出担当の教員に「確かに受け取りました」と言われたのは午後5時2分だった。

 

 

 

アパートに帰り、靴を脱いだ瞬間一気に力が抜けた。卒論の呪縛から解き放たれたのだ、と思うと心から安堵した。もう、『卒論をしなければいけないけれど、身体が言うことをきかない』『卒論を書かなきゃいけないけれど、脳が重くて書けない』『卒論すら進められない自分はなんでダメなんだ』という呪縛から解き放たれたのだ。そう思うと、嬉しくて仕方がなかった。

 

 

 

卒論を終え、晴々とした気持ちで参加したイベントはものすごく幸せな時間だった。

こんなにスッキリした気持ちになれたのはいつぶりだろうかというほど、現実を忘れることができた。

たぶん死ぬ前の走馬灯にあのイベントは出てくるはずだ。そのくらい思い入れのあるイベントになった。

 

 

 

 

 


時間は少し進む。

 


2月の第1週、唯一受講していた授業のテストがあった。今まで配布されたレジュメの持ち込みが可能だったので、休んでしまって手に入れられなかったレジュメ以外を持ち込み、分からないところ以外はきっちり埋めて提出した。正直自信はなかったが、レジュメをしっかり見て答えたのだから多分大丈夫だと不安がる自分に言い聞かせた。

テストが終わって息つく暇もなく、私は別のことに取り組まなければいけなかった。


卒論発表だ。

 

テストの日から発表までの約二週間、また担当教員の研究室に入り浸りながら発表用パワポを作った。されるであろう質問とその答えを一緒に考えながら少しづつ作っていった。

 

 

 

 


そんな中、異変は起きた。

2月10日の夜だった。少しだけ家で資料を作り、疲れたからもう今日は布団で横になろう。と床についたときだった。

左足の薬指あたりが痺れていることに気づいた。

ずっと座椅子に座ってたからかなと思い、その日は放置して眠ることにしたが、痺れが気になってなかなか寝付けなかった。

翌日、目が覚めても痺れは治っておらず、むしろ痺れの範囲が両足の裏に広がっていた。例えるなら整骨院などにある電気を流して治療する、あの機械を強めにした時のような痺れだった。

私は酷く困惑した。こんなことは生まれて初めてだったからだ。

 


だが、発表準備はしなければならないとその日も研究室へ向かった。椅子に座ってパソコンと向き合っていても足の裏がむずむずしてたまらない。夕方、家への帰路の途中、左足が酷く痺れてしばらく立ち尽くして動けなくなった。

痺れは夜になると酷くなるように思えた。ピリピリとした感覚が脚を這いずり回るのがとてつもなく不快だった。

 

 

 

痺れは治ることなく、むしろ日に日に強くなり広がっていった。

卒論発表の当日には、痺れは両足の膝から下と、手首から先に広がっていた。

卒論発表では自分以外の他人の発表も聞かなければならなかったが、正直自分の発表のことと痺れのことで頭がいっぱいだった。

 


そして、順番となり、私は教卓の上に立った。

教室の中にいる30人ほどが私を見つめている。その感覚が恐ろしく思え、顔がどんどん火照っていくのが分かった。声がうわずり、用意していた原稿を噛みながら読んでしまう。その間も手足の痺れはずっと続いたままだ。

 

 

 

なんとか発表をしながら私は「おかしい」と考えていた。今までこういう誰かの前に立つ場であがったことはあまりなかった。

ずっと習ってきたピアノの発表会ではこの何倍もの観客の前で弾いたこともあり、誰かの前に立つことには慣れているつもりだった。何度か緊張したことはあったけれど、ここまで顔が赤くなったことも、声がうわずったこともない。

前ならもう少し冷静に発表ができていたはずなのに、今はこんなに不恰好な発表しかできていない。

なんとか発表を何とか終えた瞬間は、今までとは違う「何か」が自らの中にあることを認めた瞬間でもあった。

 

 

 

卒論発表を終えると痺れの強さは少し弱くなった。しかし、完全に消えたわけではなく、時々ピリピリと弱い痺れが現れる。しかも太ももや二の腕に静電気のように一瞬だけ走る痺れも現れ出した。

妙に不安になって自分で調べたりもしたが、結局原因は何も分からず、当惑するばかりだった。

 


卒論発表からさらに1週間後の試験結果発表時にも痺れはあった。無事に合格し、1ヶ月後にあった引っ越しの時にも痺れはあった。

ただ、もうほとんど気にならないくらいになっていた。実家へ帰る車中では「卒論発表とか試験結果のストレスで痺れとかが出たのかなあ」としか思っていなかった。

この時は、実家に帰ってしばらく休めば、痺れは完全に治るかなと思っていた。

しかし、この痺れはそんなにたやすく消えてくれるものではなかった。

さらにここから半年近く痺れに悩まされることになるのだが、その話はまた別の機会に。

 

 

 

今回はここまでで。

 

 

これはきっと『推し依存』

 

 

 

 

 

 

 

今月に入ってから、推しに降りかかった出来事で凹んだことが2度あった。

心身の不調も相まり、直近の5日間では外に出ることはおろか、家事をこなすことや起き上がることすらままならない日もあった。

今は少し回復し、気持ちも前向きになりつつあるが、また気分の落ち込みが来て他人へ迷惑をかけるのは忍びないので、週末にあった予定を泣く泣くキャンセルすることにした。

 


辛いことばかりを反芻し、落ち込むことばかりを繰り返し考えてはまた嫌悪感に沈んでいく『気分の底』の状態を抜け出すことができ、少し動けるようになったので、2日振りくらいに入浴していた時、ハッと気づいた。

 

 

 

 

 

 

これは、「推しに依存しているのではないだろうか?」と。

 

 

 

 

 

 

振り返ると昔から何かに依存しながら生きてきたように思う。中学の時は1人の友達に依存して相手を困らせたり、高校ではネットに依存して辛い心からの逃避をしていたりもした。たぶん依存体質なのだろうとは数年前から薄々感じていた。

ただ、これらと今回の依存は性質が少し違うように感じる。

それは、「感情の主導権まで依存させているか」という点だ。

 

 

 

友達への依存やネットの依存は、それで心身の安定を図っていた面があるにしろ、感情そのもののコントロールは自らが担っていた。他人に酷く情緒を乱されることがあったとしても、それは自分の行動が原因の一端を担っていることもあったし、そうでないこともあった。もちろん依存先での出来事で悲しくなったり落ち込んだりすることもあったが、それが生活に支障が出るほどであったかといえば違った。

 

 

 

 

 

 

しかし、今の『推し依存』はそうではない。

推しに感情移入しすぎているのか、私の理想を押し付けすぎているのかは今の所分からないが、推しの行動とその結果に、あまりにも自分自身の感情が左右されすぎている。実際直近3日は推しの事を思っては悲しみ、何をしていても推しが頭をよぎった。

 

 

 

確かに推しの行動によって感情の起伏が生まれるのは、オタクにとっては当たり前に起こりうることだと思う。オタクはそれぞれ『理想の推し像』があり、それに出来るだけ近づいて欲しいと願う我が儘な生き物だからだ。(と私は勝手に思っている)

『〜〜ロス』、なんていうものは恐らくその最たるもので「そんな…推しがこんな風になるなんて…」という気持ちを多数が持ってしまうことをこの言葉は指しているはずだ。

 

 

 

ただ自分の場合は、推しに握られている感情の割合があまりにも大きすぎるのではないのだろうか。と今回気づいた。

描いていた理想の推しの姿ではなくなったのは辛い。だけれどそれによって日常生活に支障が出てしまうというのはかなり危険な兆候だ、と考えた。

今の自分は、「自分でない人間に、自分の感情のハンドルを握らせている」状態になってしまっている。

 


このまま『推し依存』を続けてしまうと、下手すれば「推しがもう理想でなくなったから私はもう生きられない…」となるかもしれないし、「推しが不当な扱いを受けるのはおかしいから不当な扱いをしている奴に攻撃するぞ!」となるかもしれない。

こうなってしまうと、オタクではなく危険人物となってしまうし、健全な人間の精神ではなくなっている。

もちろん目指している自分の生き方とも程遠い。

 

 

 

確かに今回の出来事達は、自分の解釈とも理想とも合わず、辛く苦しいものだった。まだまだ受け入れるのには時間がかかるだろうし、きっと思い出す度に複雑な気持ちになる。

だけれど、それとは別として自分は自分の人生を歩まねばならない。

やるべきタスクも、やりたいこともあるし、解決しなければいけない課題もある。それを全て放棄して、理想の推し像とのズレを悲しみ、感傷にどっぷり浸って動けなくなるのは絶対に違う。

 


悲しみだけでなく怒りもそうだ。少し前まで自分は、ある推し達(今回の気持ちの凹みの要因になったのとは別の推し)に降りかかった出来事に非常に怒っていた。だが、よく考えれば理想とのズレで非難し続けるのも恐らく違う。

それは『怒れるオタクの自分』『正論を言って推しに物申している自分』に依存して前に進めなくなっているだけだ。自分自身が怒りの対象に感情のハンドルを預けたくせに、怒りの対象のハンドルさばきに文句を言っている。

あの頃の自分は迷惑なクレーマーのようだったのだなと自省した。

 

 

 

 

 

 

出来事への感情は一旦置いておいて、とりあえず切り替えて別のことをしなければならない。

きっとそういう場面はこの先何百回もやってくるはずだ。

たぶん今までの自分はそういう出来事と自分の感情の切り離しが上手くできず延々と悩むことが多かったのだなと気づかされた。元々感受性が強い人間だったのが、推したちには特に強く想いを寄せてしまい、今の感情を寄せすぎた依存のような状態になってしまっている。とも考えられる。

 

 

 

 


とにもかくにも、自分に対してまた新たな発見が出来たことはとてもありがたいので、この3週間私の心をかき乱し続けた推したちには心の底から感謝したい。

ありがとう、推したち。

 

 

 

 

 

 

 

真夜中の祈り

 

 

 

 

眠れない時には、よく考え事をする。

考えることはその時によってバラバラで、

”明日の試合に推し選手は出るかな” ”夜ご飯何にしようかな” という軽いことから、

”今生きてる意味って何だろう” ”私と他人の境界はどこからなのか” という命題的なものまで幅広い。

これらを一晩でいくつも、考えてはやめて、また考え出してと繰り返していくと、大抵いつの間にか眠りにおちているのだ。

 

 

 

 


ただ、時にはそれでも眠れない時がある。

今日もたまたまそういう日で、わたしはある人のことを思い出していた。

今振り返ればきっと、わたしの目にはその人は一際綺麗に映っていたのだとおもう。

あの頃も明確に好きという感情ではなかったけど、どこか素敵だなと思っていた。

寡黙で少し怖い雰囲気だけれど、とても字が綺麗で真面目な人。そんな印象だった。

もう少し近づきたかったけど、近づくと困らせてしまいそうで、わたしは遠くからそっとその人を見ていた。

そんな関係だったから、今のわたしはその人への連絡手段を一切もっていない。

その人が今どこで何をしているのか。そもそも生きているのかさえも、もう分からない人だった。

 

 

 

 


「あの人、今何してるんだろう。」

気になりだすと、納得できるまで探し出すのが私の悪い癖で。検索エンジンを開いてその人の名前を打ってみた。

一番最初に出てきたのはとあるホームページで、なにかの紹介ページだった。

ページを開き、ゆっくり読み進めていくとその人はあっさりと見つかった。

あの頃の面影が少し残る、あの頃よりも素敵な笑顔で、その人は写真に収まっている。

スーツを纏ったその姿は、わたしの目にはあの頃と同じように、一際綺麗に見えた。

 


そうか、生きていたのか。この人はここで頑張っているのか。

 


よかったと安堵したわたしは、そのページを閉じると、またぼんやりと考えだした。

どうかそのまま、健やかに、穏やかに、健康を損なうことなく、わたしの手に入れられなかったものを持ったまま、幸せになってほしい。

どうか、無事に生きていってほしい。

 


そう思った後、この気持ちを客観的に見るとまるで神への祈りのようだなと思い、よくわからない笑みが溢れた。

 

その日は、いつもより少し穏やかに眠れた気がする。

 

 

 

 

あの日、iPodだけが友だった

 

 

 

 

 


物心ついたときから音楽が身近にあった。

 

 

音楽好きの両親のもとに生まれたため、恐らく胎児の頃から音楽は耳に入っていた。産まれてからは家の中に設置してあるステレオコンポやカーステレオから更に音楽を吸収し、4歳の時に習い事としてピアノを始めたおかげで自ら音楽を奏でられるようにもなった。

小学生までは両親の好みである1980年代から90年代のヒット曲ばかりをカーステレオで半ば強制的に聞かされつつ、ピアノの課題曲や発表会で演奏するときの参考のためにクラシックなどを聞いていた。

 

 

 

 

恐らくこの頃のほうが現在より音楽に対して時間・体力・気力を割いていたようにも思う。しかし今になって振り返るとそこには常に義務と強制の気持ちが付きまとっていた。

 

なぜなら小学生の時の私にとって、音楽は「嫌でも弾かなくてはいけないもの」であり、「私の意思とは関係なく聴かなくてはならないもの」だったからだ。

 

 

 

ピアノをやりたくないとサボっていたら必ず母に『やりなさい』と言われていた。ミスを続けていると『どうして出来ないの』と言われ、時には声を荒げられることもあった。涙でぼやけた視界の中でひたすら鍵盤を叩いていたこともある。

 

「やらなきゃ怒られる」「覚えるために聴かなきゃいけない」「上手くできるように練習しなきゃいけない」の気持ちが常に付き纏う音楽の事は、好きではなかった。むしろ学校で「ピアノやってるから音符読めるし上手く出来るよね?だからこれやってよ」と木琴やアコーディオンの係をやらされたりもして少し億劫なこともあった。

小学生(特に高学年頃)の私にとって、音楽は「それなりにできることは自慢できるが、強制イベント的にやらなくてはいけないめんどくさいもの」であった。

 

 

 

中学生になった時、部活動に入ることになった。その当時は学校の規則として全員なにかの部活動に所属しなくてはいけなかったからだ。

 

 

 

帰り道、『部活動どうするの?』と友人に聞かれた私は、少し考えてこう言った。

 

『とりあえず、吹奏楽部は嫌だな。』

 

友人は酷く驚き、なんで嫌なの、私吹奏楽部入ろうと思うんだ、どうせなら音楽やってるんだから一緒に入ろうよ、とまくしたてられたが、私は乾いた声で一言呟いた。

 

『これ以上音楽と関わる時間を増やしたくないんだよね。』

 

平日の部活動が終わるのが午後6時、そこから家に帰って恐らく1時間ほどピアノの練習しなくてはいけない。休日も3時間ほどは練習に費やす。それに加えて吹奏楽部に入ると平日は2時間、休日は少なくとも半日は楽器と触れ合わなくてはいけなくなる。もうこれ以上音楽に関わる時間を増やすのは嫌なんだよね。

 

 

言い方は少し違えど、確かこんなことを私はその時友人に言ったと思う。私の説明を聞いたあと、友人は少し寂しそうに笑って「そっか、なら仕方ないね。』と呟いていたことだけは、私の脳裏に強く焼き付いている。

 

 

 

 

 

結局私は、消去法で残った美術部に入部した。

 

きっとどこもそうだろうが、美術部というのは往々にして変わった人が集まる。私の所属した美術部も多分に漏れず変人の巣窟であった。(この美術部で起こった話は書くと長くなるのでいつか纏めて記したい)

 

そこで私は今まで知り合ったことのない人とたくさん出会った。

 

知らないもの、知らないこと、知らなかった世界を教えてくれる先輩や同級生、顧問の先生と話していくうち、少しずつ私の中に「もっと知らないことを見てみたい」という気持ちが芽生えてきた。

 

 

 


この頃から少しずつ自発的に音楽を集めるようになっていた。

大抵は部活中の会話で同級生から勧められた音楽をインターネットで探して聴き、その感想をまた部活中に共有するというものだった。

当時はインターネット環境が家に無かったため、母の勤め先にいる方の家にお邪魔し、パソコンをお借りして曲を探していたため、一度に探せる曲数には限りがあった。しかし自ら進んで、興味を持った音楽を探し、聴き、感情を動かされ、それを身近な人と共有するということは私の音楽に対する思いを変えてくれた。

今まで「発表会があるから嫌でもやる」「覚えるために聴かなきゃ」と義務感を持って付き合ってきた音楽と、この時に初めて仲良くなれた気がした。

 


そうして出会った曲がきっかけで初めてCDを買ったり、新たな友人が出来たり、別の曲と出会ったりもした。音楽への認識が変わったことが、確実に私自身を少しずつ変えていった。

 


中学3年の頃、私はiPod touchが欲しいと親に言った。存外すんなりとそれを受け入れてくれた親は、秋にそれを私に買ってきてくれた。

好きな曲を詰め込んだ銀色のボディをしたiPodを私は溺愛し、愛用した。時には寝る前にイヤホンをつけて音楽を聴き、そのまま眠りにつくこともあった。

好きではなかった音楽を、この時やっと好きになれた気がした。

 

 

 

 


高校に入ってからの数ヶ月間もそれは続いた。往復1時間近い通学時間で音楽を聴き、帰って課題を終えてから寝るまでの間にまた聴く。変化した環境に慣れようともがいていく中で、音楽が楽しみの一つだった。

 

 

 

 

 


しかしあの日を境に、音楽と私の関係はまたしても変わってしまった。

 


「死にたい」を思ってしまったその日から、今まで聴いてきた曲を聞けなくなった。聴こうとすると歌っている彼らの華やかな姿を思い出し、自分の今の惨めな姿との対比に苦しくなった。

 

 

そして、音楽を失くした通学時間が耐え難いほどの苦痛を伴う時間となった。

 

 

 

周りで聞こえる同じ学校へ向かう人々の話し声。今まで気にも留めなかったそれらが全て私に向かって投げつけられる暴言のような気がした。ただの乗り物がまるで牢獄のように思えて仕方がなく、その時の私にとっての通学は絶望から出て地獄に向かい、地獄からまた絶望に帰るまでの道程にある、小さな牢獄に乗る時間となった。

 

 

 

親兄弟も友人も先生も、今まで聴いてきた音楽すらも信じられなくなった私は、世界中が敵になったように思えた。孤独に苛まれ、味方を求め、理解を欲した私が出会ったのが、『機械が歌う音楽』だった。声はあり、姿もあるが実際に生き物としては存在しない。歌詞に思いはあるが歌い手の感情は込められてない。人を信じられなくなっていた私に、人の匂いがしない曲はあまりにもすんなりと胸の奥に入ってきた。

 


あっという間に私はそれらを好んで聴くようになった。イヤホンをつけ音量をできるだけ大きくしてそれらを聴くと不思議と苦痛が和らぐ気がした。派手で打ち込まれたサウンドが周りにいる人間の声や雑音も自分の頭の中に反響する呪詛にも似た言葉も全てをかき消してくれた。過激で直接的な表現をした歌詞に自分の心境を照らし合わせて、共感したりもしていた。

 

 

 


純粋な「好き」として楽しめなくなった音楽を自分を守る為の盾として使う。そうすることでボロボロになった心を何とか引き留め、高校生活を過ごしていた。まるでお守りのようにiPodとイヤホンをポケットに入れ、少しでも空き時間があれば曲を聴いていた。音楽に包まれている時だけが、安定した精神を得ることができていたとすら思える。

 

側から見れば依存のようにも見えていたかもしれないが、依存しなければいけないほどその頃の私は追い詰められていた。死にたいが生きなければいけない。学校へ行きたいがいざ近づくと身体が震えて動けなくなる。ちぐはぐになった心と身体をつなぎとめるため、悲観的な方向へ暴走する思考を鎮めたいときや誰にも理解されない孤独を埋めたいとき、私は何故か数多に存在する選択肢から無意識に音楽を選んでいた。

 

 


そしてiPodが作り出す盾の中で私は少しずつ生きる気力を取り戻していった。感情を整理し、心と身体を整えることが可能になった高3の二学期頃からやっと少し落ち着いて勉強ができるようになった。家では何も気にせず休みたいと考え、勉強をすることは学校でやっていた。その時にも音楽を聴いていたが、それは私をより勉学に集中させるためのものとしてで、今までの付き合い方とはかなり変容したものだった。

 

この頃になると、中学時代に聴いていた曲も少しずつ聞けるようになっていた。ここまで戻ってこれたのかな、と思うと同時に少し曲の受け取り方が今までと変わったようにも感じた。

 

 

 

大学生になってからは音楽を選り好みすることが減った。音楽は私とは別の人が見る世界を知るためのものだと考えられるようになったのか、気になったものはなるべく聴くように心がけるようにした。

歌詞やメロディーから広がる他者の世界に共感したりすることを楽しいと考えて、新しい曲を日々探すようにした。曲が増えれば増えるほど、私の感じることができる世界が増えたように思えた。辛いことがあればそこへ逃げ込み、楽しいことがあればその世界とともに思い出を噛みしめた。

 

 

 

 

 

 

8GBのiPodに入りきっていた私の音楽は、今や64GBにも入りきらないほどになっている。それだけ私が新しい曲を探し、出会ってきた証なのだろう。

今でもiPodとイヤホンは常に私の手の届くところに置いてあり、いつでも聴けるようになっている。

だがそれはあの頃のような世界からの逃避のためではなく、「この曲を聴きたい」というふとした気持ちにすぐに応えられるようにする為のものだ。

 

 

 

音楽には思い出が記憶される、と何かで見たことがある。昔聴いてた曲を聴くと、その時の風景や気持ちが蘇ってくるという意味のその言葉は、私の聴いてきた曲にも当てはまると思う。鬱の影響なのか高校を中心とした過去の記憶はほとんど思い出せないのだが、それでも音楽を聴くと様々な出来事や情景が去来する。欠けた記憶を思い出させてくれるピースの一つが音楽になっているのだ。

 

 

子供の頃は嫌悪の対象だった音楽が私の話の種となり、時には私を守る盾となってくれた。そして今は私の人生に必要な要素の一つとなってくれている。

今聴いているこの曲に、私はこれからどんな思い出を付け加えることが出来るのだろう。そう思いながら私は今日も新しい曲との出会いを求めていく。

 

今でも中3の時に買って貰い、高校卒業まで使い続けたiPodは捨てずに手元に持っている。

まるで戦友のように思えて、どうしても手放すことが出来ないのだ。

あの日々の全てを共に過ごしたのはこのiPodだけだから。

同居7年目

 

 

 

同居が始まって7年が過ぎた。

君との生活はいつまで経っても慣れないままだ。

 

 

 

 

 

 

君は私を苦しめたがるのが好きみたいだ。

そろそろ辞めて欲しいんだけど、きっと言っても聴く耳を持ってくれないんだろう。

 

 

 

 


朝起きた時から君との闘いは始まるんだ。

起き上がろうとしたら君は全体重を身体の上に乗せてくる。

君は余りにも重いから、私は時々起き上がらなければ出来ない全てのことを──例えそれが大切な用事であったり、ご飯を食べるという生きる為に必要最低限のことであっても──諦めざるを得なくなってしまう。

 

 

 

奇跡的に私が闘いを制して起き上がれたとしても、君は私を嬲り続ける。

私の心の全てを見透かしてしまう君は、思ったこと全てに否定をし続ける。

「お前は何も出来ない」「こんなことして意味があるのか」「生きてる意味などない」「早く死んでしまえばいい」

こんな言葉を家の中でも外でも、私にだけ聞こえるように四六時中浴びせ続けるよな。

 

 

 

そうだった、君はストーキングが趣味だって事を書き忘れてた。

君は私の行く先全てについてくるんだった。

学校であろうが、ちょっとした旅行であろうが、全ての場所に君はついてくる。

片時も私の傍から離れようとはせず、私を虐め続けるんだ。

 

 

 

 


おはようからおやすみまで、傍を片時も離れずに延々と酷い言葉をかけ続けられる。

そんなことされて正気を保てるほど強くはない私はすっかりまともな生活が出来なくなってしまった。

 

 

 

君と闘って起き上がることはすっかり諦めて、布団の中で君の中傷を聴き続ける。そんな日々をもう7年以上過ごしている。

時々君の中傷に耐えきれなくなった私は、気まぐれに自分の指先に刃物を向けて傷つけ、ボロボロの指を作り出す。

他人が一日で摂取する食事量を一食で平らげてもなお何かを口に入れようとしてみたり、反対に3日近く何も食べずに水だけで過ごしたりする時もある。

君の罵声で眠れずに夜を明かすことも、君の罵声が聞きたくなくてひたすらに眠り続ける日もある。

そんな酷い生活全てを傍で見ている君は、ほくそ笑んでまた言うんだ。

 


「お前みたいな人間、早く死ねばいいのに。」

 

 

 

そうして生きている意味がすっかり分からなくなった私は、君と別れるための手段として死を選ぶ。

踏切に飛び込もうとしてみたり、自分の体に包丁を突き刺そうとしてみたり、薬を大量に摂取したり、首を吊ろうとした。

それでも最後は上手くいかない。

人間としての本能が、私を死へと導いてはくれない。

そうしてまた、君と顔を合わせた私は、「もう嫌だ、会いたくない。」と涙を流していく。

 

 

 

 


君のことは僕以外誰も正確には認識できない。

時々君の嫌がらせを誰かに伝えるんだけれど、どうしても全てを他人は理解してくれないようだ。

「どうして当たり前のことが出来ないの。」

「死にたいなんて言わないで。」

そんな言葉を並べられて、私は君という存在を恨み、君とまともに闘えない自分を呪う。

それを見てまた君は、私を苦しめることが出来たと満足そうに笑うんだ。

 

 

 

君に虐げられてきた私は、ついに認識が歪んでしまう。

会う人全てが、君に見えるようになった。

言葉をかけられると同時に君の言葉が聞こえるような気がするようになった。

他人に君が乗り移って私を見つめている。そんな錯覚を起こすようになった。

そうするとますます他人が嫌いになった。

家から出ることが怖くなった。

世界の全てが、自分の敵に思えるようになった。

誰もが君の味方だと思うようになった。

そうして私は、人目を避けるようになった。

それを見て君はまた僕を嘲笑する。

 

 

 

 


こうやって君のことを書き並べている今も、君は私を苦しめ続けている。

もう3ヶ月以上、毎日三食という生活は送れていない。3日近くの絶食と平均的な一食を遥かに超える過食を繰り返す日々だ。

24時間以上起きていることも、12時間以上眠る時もある。

起き上がることが、他人といることが辛いから家から1歩も出ない日が何日も続いたりした。

身だしなみなんて気にすることさえ出来ず、気がつけば1週間近くお風呂に入っていなかった。

今の私は、他人に会える状態ではないという事だけは認識できている。

それだからこそ、今は誰とも会いたくない。会いたくないけれど誰かにこの気持ちは伝えたい。

このワンルームで君と二人きり。

それは私にとって「当たり前の日々」と化した拷問だ。

 

 

 

 


こんな私にも立派に夢はある。

なりたい人生も、やってみたいことも一応はある。

それら所謂希望と呼べるようなものを、諦めざるを得ないように君は私をじわりじわりと追い詰めていく。

詰められる度、私は余りにも君の存在を恨み、君を追い出したいと心から願う。

でもそれは決して叶わない。君は一生、私についてまわる運命なのだから。

 

 

 

 


もう疲れたよ、君との同居。

そう言っても君はきっと、明日も私の隣に居続けるはずだ。

相変わらずきっと、私を苦しめ続けるのだろう。

そして苦しむ私をみて、笑って、楽しんで、また私を虐めるんだろう。

いつか私が息絶えるその日まで、私の傍から離れるつもりは無いんだろう。

 

 

 

なあそうなんだろう、「鬱病」さん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年度プロ野球 私感

 

 

 

 


昨日で私の2019プロ野球シーズンは終わった。

余りにも呆気なく、まるで一握の砂のように零れていった。振り返ってみればそんなシーズンであった気がする。

 

 

 

(私はチームで言うと広島東洋カープ埼玉西武ライオンズのファンだ。歴で言うとカープの方が長いのだが、今は両チームを応援している。

選手個人だと12球団全てに好きな選手がいる。どうしてカープとライオンズを掛け持ちするようになったのか、については別記事で書きたいと思う。)

 

 

 

 

2018年シーズンにおいて広島東洋カープ埼玉西武ライオンズ、両チームはリーグ優勝という名の栄光を掴んだ。

歴代最強と言って過言ではない打線に引っ張られるようにチャンピオンフラッグを掴んだ両軍はそれぞれに課題を残し、別れを経験した。

広島東洋カープ日本シリーズまで進むも3年連続で日本一を逃し、『3番中堅』の丸佳浩がFA、新井貴浩が引退。埼玉西武ライオンズクライマックスシリーズソフトバンクに破れ、『3番二塁』の浅村栄斗がFA、菊池雄星炭谷銀仁朗のバッテリーがポスティングとFAでチームを去る。)

 

 

ファンはある程度チームを立て直すことを望み、だが心のどこかで「それでも、このチームは勝てるはずだ。きっと日本一になれる。」と淡い期待を浮かべる。そんな気持ちで2019年の開幕を迎えたのではないだろうか。少なくとも私はそうだった。

 

 


広島東洋カープはまるで乱高下を繰り返すかのように今シーズンを過ごした。投手が上手く相手打線をかわしつつ耐えるものの打線の援護がなく、敗北を喫する日。全く反対に打線が噛み合うも投手が炎上し、苦杯を舐める日。そんな日が交互に訪れるようなことがシーズン序盤は多かった。

GW明け、歯車が噛み合うように連勝を重ね、一時は8あった借金を完全返済し、貯金を重ねた。しかしそうして首位に立ったのはほんの一瞬だった。

カープの長年の鬼門である交流戦でそれまでの勢いはあっという間に失われ、夏が始まる頃には首位をあっさりと明け渡してしまう。

 

 

 

 


「このチームはこんなはずではない。」

「このままで終わるような人達ではない。」

『1番遊撃』田中広輔の不調。定まらない3番打者。齟齬のある、どこかちぐはぐなチーム。それでも、はなお、選手達の「諦めていません」という言葉を信じていた。

選手が諦めないなら、最後まで応援しよう。そう思っていた。

しかし、その思いも虚しくカープは調子を上げられることはなく、3位の位置で落ち着いていくようになってくる。私の想いも「優勝して欲しい」から「CS本拠地開幕をして欲しい」へと変わり、よく閲覧しているカープファンの方のツイートにもどこか達観に似た諦めが目に見えるようになってきた。トレンドに挙がったカープファンのツイートには監督、選手等への暴言や心無い言葉が溢れるようになってきた。

 

 

 

そして私は、広島東洋カープから目を逸らすように埼玉西武ライオンズに熱を入れるようになる。

今振り返ると殺伐としてしまったカープ界隈から少しでも離れたかったのだろう。

 

 

 

 


ライオンズも同じようにAクラス争いを繰り広げていたが、私の捉え方は違っていた。

「よくやっている」

「Aクラス争いをするなんて」

こんな思いが試合後の結果を見る度に胸に去来していた。

『3番二塁』と『エース』と『正捕手』を一気に失ったチームがAクラスに入るわけがない。

私はシーズン前、失礼ながらライオンズにそう思っていたのだ。

 

 

 


シーズンが進んでいくたび、それは魔法のように埋まっていく。

外崎修汰のセカンド定着、今井達也や本田圭佑らの台頭、森友哉の攻守の活躍。

1試合が終わる度、ゆっくり着実に失ったモノを既存の人達が補っていく。そんなチームだと見ながら感じていた。

「もしかしたら、もしかするかもしれない。」

8月が進む度にそんな気持ちが膨らんでいった。

それは他のファンも同じだったようで、トレンドにライオンズ関連のフレーズが載るたび、ボルテージが上がっているのを感じた。

そして、首位に立ったその日にそれは確信に変わった。

「ライオンズは優勝できる」と。

 

 


そこからはあっという間だった。

9月、強固な打線によって畳み掛けるように勝ち星を重ねたライオンズは142試合目で連覇という名誉を手にした。

まるで夢のようなシーズンだと感じ、浅はかなファンである私はもうひとつ淡い期待を抱いてしまった。

「これは、今年こそ日本シリーズまで進めるのではないのだろうか。」

去年見た辻発彦監督の涙が、悔しそうな選手の顔が、今年こそ笑顔に変わる時が来るのではないのだろうか。

そう思っていた。

 

 

 

 

そんな淡い期待は脆くも崩れていった。

 

第1戦目の逆転負け。その後私は縋るように信じていた言葉がある。

「このチームはこんなはずではない。」

「このままで終わるような人達ではない。」

馬鹿な私は、数ヶ月前カープに思ったそれをそっくりそのままライオンズにも思ってしまった。

そうして、ライオンズが、つい先日まで見せていた畳み掛けるような攻撃を、「まさに『ミラクル元年』」と揶揄された勝利を掴んでくれると信じながら、一球速報にしがみついていた。

 

その思いも、悲しいことに勝利の女神には届かなかった。

 

 

 

 

全てが終わった今、私は空虚感に苛まれている。

半年以上に及んだプロ野球が終わりを告げたということからだろう。どう足掻いてもこの事実は変わらないのにもしかしたら明日も試合があるかもしれないと思ってしまう。そんな奇跡はもう起こらないのに。

 

 

 

そして、同時に私は後悔している。

もっと真剣に彼らを見つめていればよかったと。

どれだけ巻き戻したくても、過ぎた時はもう戻らない。

「2019年の広島東洋カープ

「2019年の埼玉西武ライオンズ

これらはもう、生で見ることは二度と叶わないのだと言うことに私は恥ずかしながら今更気付かされたのだ。

 

 

「当たり前は当たり前でない。」

至極簡単なことを私はやはり日々の中で忘れてしまう。そして、自分の都合の悪いことから逃げてしまうという悪い癖がどうもついているようだ。

夏のあの日、カープから逃げてライオンズに逃げたことも、クライマックスシリーズをテレビで見つめず一球速報に頼ったことも。

テキストではなく、映像で、できれば現地で彼らを見つめていればもっと違う何かが見ることが出来て、それらから何かを感じられたのかもしれないと本当に後悔している。

もう少し私はプロ野球について真摯に向き合うべきなのではないだろうか。

これは来年への課題としてシーズンオフの宿題としたい。

そして、来年は今年より、良い野球オタクライフを過ごせるようになればいいなと思っている。

 

  

 

ダラダラと書きすぎたので今回はここまでで。