オタクのKさん

忘れたくない今の気持ちと思い出せた過去の書きだめ

限界大学生が卒業するまでの半年間の記録

 

 

 

 


某年10月、私は焦りに焦っていた。

 


「もうすぐ締切だ……」

 


1年の休学を経て、4年生として復学をした私は、卒業までの最低取得単位数まであと2つとなっていた。

読んでいる貴方は、「それなら焦る必要はない、普通に授業を受けて単位が取れたら卒業出来る」と思っただろうが、私には強敵が待ち受けていた。

 

 

 

卒論。

それは大学生最後にして最難関の課題。

私は卒業を半年後に迎えているにも関わらず、それにほとんど立ち向かえてなかった。

 

 

 

 

 

 

 


そもそも私が休学した理由のひとつは「今の精神状態では卒論に取り組めないから」であった。

3年の夏季休暇中に行われた実習で精神的にかなり不安定となり、卒論はおろか人間としての生活全てにおいての気力がほぼ失われてしまっていた。

 


まず、1日1食が常になっていた。

食事をまともに食べられず、食べることすらめんどくさいと丸3日何も食べなかったこともある。逆に1度の食事で2日分近くのカロリーを摂取したこともあった。

お風呂に入る気力はまず湧かず、最長1週間入らずに暮らした。

基本的に昼夜逆転の生活を送り、40時間近く眠れない時や15時間近く眠る時もあった。

そんなボロボロの状態では誰か知っている人に会うのが怖くなり、大学以外で外に出る時は決まって日が沈んでからだった。

 

 

 

そんな生活しか送れない身体でも、私は精神科に通院をしつつ、身体にむち打ちながらなんとか4年次へ進んだ。

高校の時に両親に心配と迷惑をかけさせてしまったこと、経済的に厳しいにも関わらず無理して県外の大学へ行かせてくれたこと、まだ未成年だった妹と弟にかかるお金の為に4年できっちり卒業して欲しいと入学時に言われたこと。それらをきちんと遂行したいがために無茶をした。

 


しかし、本格的になり始めた就活と卒論、国試対策に追われた私の身体はとうとう限界を迎えた。大学4年の夏休み明けに家から出ることが更に困難になってしまい、ほぼ1ヶ月近くキャンパスへ1度も行けなくなった。もうこれ以上大学生活を過ごすのは不可能だと私は判断し、両親へ休学を提案した。てっきり拒否されるかと思ったが、私の現状を聞いた上で両親は提案を受け入れてくれた。

すぐに担当医に相談し、意見書と休学届けを大学へ提出し、2週間ほどの審査期間を経て、晴れて私は1年間の休学を許可された。

 

 

 

 


休学となってからしばらく経ってもやはり外に出るのが怖く、生活も改善しないままで一人暮らしの部屋に閉じこもっていた。だが祖父母への現状報告のためにおこなった実家帰省を機に、休学中の殆どを実家で過ごすことに決めた。恐らく両親は久々に顔を合わせた私を見て、その生活の酷さを察して提案したのだろう。私自身もそれに同意した。

 


実家に帰ると私のやるべき事はグッと減った。料理炊事掃除買い物…今まで全て一人でやっていたことをやらなくて済む。もちろん大学へ行くことも食料調達のための強制的な外出もない。家から出られなくても平気に暮らせる。実家にいることでストレスはかなり減ったと感じた。実際食事に関してはかなり改善され、お風呂に入ることも2日に1度程度だができるようになっていた。

 


だが、実家に戻ってもどうしても定期的に一人暮らしの家に帰らなくてはいけなかった。処方された薬は長くても40日程度しか貰えなかったため、薬が切れそうになったら薬をもらいにアパートへ帰り、数日そちらにいてまた実家に戻るという、奇妙な生活をしていた。

 


近い方が遅刻ギリギリでも大丈夫だと思って選んだアパートからは大学が見え、最寄駅に向かう道のりでも大学構内の1番高い建物が目に入る。

病院で薬を受け取った後、泊まるためにアパートに向かっていく時、特徴的なデザインをしたその建物は、嫌でも見える。

私はそれを見るのがとても苦痛だった。

劣等感、申し訳なさ、悔しさ、不快感、1年後にはまた行かなきゃならない使命感と恐怖感。建物が見えた瞬間あらゆる感情が一気に胸の奥から飛び出してしまうので、私はいつも俯きながら歩いていた。

 

 

 

 

 

 

休学中、私は現実から目を逸らし続けた。

これから待ち受けている卒論にも国試にも、目を逸らし続けた(就職に関しては無理にしなくてもいいと言われたので、新卒での入社は諦めた)。

当時はただひたすらゲームやネット、睡眠に逃げていた。推しのグッズが欲しくて数ヶ月だけ倉庫でのピッキングのアルバイトもした。時々友人にあってはたわいもない話で盛り上がった。

この時ほんの少しだけでも卒論や国試に目を向けられたら良かったのにと今振り返ると思う。

だが同時にそれが困難だったということも理解出来る。

あの時、活字を読むのはかなりキツかった。読んでも内容が入らず、数行で脳が疲れてくる。新聞を読むことや読書は嫌いではなく、むしろ好きな方だったのが、この頃はよっぽど精神的に元気でない限り、活字は読めなくなっていた。

 

 

そして心は字が読めない事実も自己嫌悪や自己批判に変えてしまうので気分が辛くなってしまう。気分が辛くなるのは嫌だから活字はなるべく見ない。

そんなループが毎回起きてしまい、卒論は全く前に進めなかった。

卒論の担当教員は優しい方で何度も私の体調を心配するメッセージを送ってくださった。自分が研究室にいる日を教えてくださったり、役立ちそうな資料を代わりに集めたりもしていただいたが、メッセージに返信することや資料を読むこと、卒論を書くことにはなかなか手がつけられなかった。

 

 

 

 

 

 

そして私は卒論から逃げ続けたまま10月を迎えた。

休学は終わり、大学へ復学する。

 


この時点で卒業までにはあと2単位足りなかった。

この条件だと私のいた大学の場合、卒業のためには 

・何かしらの科目を1つ履修し単位を取得すること

・卒論を完成させること

・卒論発表会に出席し卒論の発表をすること

が必要だった。

 

 

 

履修する科目は取得しやすさを重視して好きな分野になるべく近く、テストは持ち込みOKのものにした。

しかし1度目の授業に私は行けなかった。

猛烈なだるさと、ある気持ちが強く出たために起き上がれず、家から出られなかったのだ。

だるさはもう何年も付き合ってきているのでやろうと思えば何となく対処は出来たはずだった。しかし問題はある気持ちの方だった。

それは、「大学が怖い」だった。

この気持ちに気づいた瞬間、私はまだ大学に戻ることは無理だと思った。何とかもう1年休学を伸ばしたいと両親に頼んだが、それは叶わなかった。

私の事とは別の問題が起きていたからである。

 


「申し訳ないが無理だ、去年と今じゃ事情が違う」と電話で説明された時、私は直ぐに納得出来た。いくらどんなに気持ちが沈んでいても納得出来るような事情が、その時本当に起きていたからだ。

「仕方ない、頑張るよ」と両親に伝え、何とか自分を奮い立たせることにした。正直自信はなかったし、無理かもしれないとも思っていた。だけれど、これ以上の休学は無理なのだからやるしかないと自分に言い聞かせるしか無かった。

 


だけれど、11月になっても全く筆は進まなかった。昼間に家を出て一コマだけ授業を受ける。それだけで精一杯で、授業を受けた後の2日は動けないような日々だった。書かなきゃいけないと分かっていても書けない。身体も心も辛すぎて、どうしようもなかった。担当教員も連絡をくれるが返事すら返せず既読だけつけるしかなかった。

 

 

 

もう卒論も卒業も諦めようかなと思ってた矢先、友人が連絡をくれた。

それは数ヶ月前に応募したイベントに私と友人が当選したという報告だった。その文を見た時、正直夢かと思った。

応募した時、2人で、「こんなの倍率が高すぎるだろうから当たるのはまず無理だろうね」と言いながら応募したイベントだったからだ。

まず、当たったことは素直に嬉しかった。しかし、問題はイベントの日付だった。

開催日は、卒論提出締切の2日前。

過酷すぎる日程だった。

 

 

 

 


とりあえず母親に連絡をした。イベントに当たったことと、開催日が卒論提出締切の2日前だと言うことを言うと、母親はこういった。

「イベントに行ってもいい。お金は何とかする。だけれど、卒論を必ず出してから行きなさい。」

 

 

 

その言葉を聞いて私は卒論をするしか選択がなくなってしまった。その日の時点でこのイベントはもう二度と開催されないことが分かっていたからだ。

 

 

 

 

 

 

そこからの1か月、私はとにかく必死にもがいた。

辛いと叫び続ける心を必死になだめ、恐ろしいとさえ感じていた昼間に気力を振り絞って担当教員のいる研究室に向かった。正直に卒論は全然進んでないと言っても、担当教員は私を責めることも呆れることもせず、「一緒に頑張りましょうね」と言ってくれた。

彼女自身も書かなければならない論文があるのにも関わらず、私のことを常に気にかけてくださった。追加の資料を探し出してくださった時は本当に感謝しかなかった。

 


イベントに行くための準備なども考え、自分で決めた提出日はイベントの4日前にした。

そしてそれに間に合わせるように必死に書き進めたが、その直前の1日は地獄のようだった。

朝から夕方まで、担当教員の研究室でパソコンと向き合い、卒論を書いた。家に帰っても書き続け、書き終えられたのは午前5時だった。

とりあえず眠り、昼過ぎに起きてまた大学へ向かった。

担当教員によるチェックを行ってもらい、OKをもらって急いでPC教室へ向かった。機器の不調によって何度か印刷に失敗したが、無事に綺麗に刷り上がったものを提出した。提出担当の教員に「確かに受け取りました」と言われたのは午後5時2分だった。

 

 

 

アパートに帰り、靴を脱いだ瞬間一気に力が抜けた。卒論の呪縛から解き放たれたのだ、と思うと心から安堵した。もう、『卒論をしなければいけないけれど、身体が言うことをきかない』『卒論を書かなきゃいけないけれど、脳が重くて書けない』『卒論すら進められない自分はなんでダメなんだ』という呪縛から解き放たれたのだ。そう思うと、嬉しくて仕方がなかった。

 

 

 

卒論を終え、晴々とした気持ちで参加したイベントはものすごく幸せな時間だった。

こんなにスッキリした気持ちになれたのはいつぶりだろうかというほど、現実を忘れることができた。

たぶん死ぬ前の走馬灯にあのイベントは出てくるはずだ。そのくらい思い入れのあるイベントになった。

 

 

 

 

 


時間は少し進む。

 


2月の第1週、唯一受講していた授業のテストがあった。今まで配布されたレジュメの持ち込みが可能だったので、休んでしまって手に入れられなかったレジュメ以外を持ち込み、分からないところ以外はきっちり埋めて提出した。正直自信はなかったが、レジュメをしっかり見て答えたのだから多分大丈夫だと不安がる自分に言い聞かせた。

テストが終わって息つく暇もなく、私は別のことに取り組まなければいけなかった。


卒論発表だ。

 

テストの日から発表までの約二週間、また担当教員の研究室に入り浸りながら発表用パワポを作った。されるであろう質問とその答えを一緒に考えながら少しづつ作っていった。

 

 

 

 


そんな中、異変は起きた。

2月10日の夜だった。少しだけ家で資料を作り、疲れたからもう今日は布団で横になろう。と床についたときだった。

左足の薬指あたりが痺れていることに気づいた。

ずっと座椅子に座ってたからかなと思い、その日は放置して眠ることにしたが、痺れが気になってなかなか寝付けなかった。

翌日、目が覚めても痺れは治っておらず、むしろ痺れの範囲が両足の裏に広がっていた。例えるなら整骨院などにある電気を流して治療する、あの機械を強めにした時のような痺れだった。

私は酷く困惑した。こんなことは生まれて初めてだったからだ。

 


だが、発表準備はしなければならないとその日も研究室へ向かった。椅子に座ってパソコンと向き合っていても足の裏がむずむずしてたまらない。夕方、家への帰路の途中、左足が酷く痺れてしばらく立ち尽くして動けなくなった。

痺れは夜になると酷くなるように思えた。ピリピリとした感覚が脚を這いずり回るのがとてつもなく不快だった。

 

 

 

痺れは治ることなく、むしろ日に日に強くなり広がっていった。

卒論発表の当日には、痺れは両足の膝から下と、手首から先に広がっていた。

卒論発表では自分以外の他人の発表も聞かなければならなかったが、正直自分の発表のことと痺れのことで頭がいっぱいだった。

 


そして、順番となり、私は教卓の上に立った。

教室の中にいる30人ほどが私を見つめている。その感覚が恐ろしく思え、顔がどんどん火照っていくのが分かった。声がうわずり、用意していた原稿を噛みながら読んでしまう。その間も手足の痺れはずっと続いたままだ。

 

 

 

なんとか発表をしながら私は「おかしい」と考えていた。今までこういう誰かの前に立つ場であがったことはあまりなかった。

ずっと習ってきたピアノの発表会ではこの何倍もの観客の前で弾いたこともあり、誰かの前に立つことには慣れているつもりだった。何度か緊張したことはあったけれど、ここまで顔が赤くなったことも、声がうわずったこともない。

前ならもう少し冷静に発表ができていたはずなのに、今はこんなに不恰好な発表しかできていない。

なんとか発表を何とか終えた瞬間は、今までとは違う「何か」が自らの中にあることを認めた瞬間でもあった。

 

 

 

卒論発表を終えると痺れの強さは少し弱くなった。しかし、完全に消えたわけではなく、時々ピリピリと弱い痺れが現れる。しかも太ももや二の腕に静電気のように一瞬だけ走る痺れも現れ出した。

妙に不安になって自分で調べたりもしたが、結局原因は何も分からず、当惑するばかりだった。

 


卒論発表からさらに1週間後の試験結果発表時にも痺れはあった。無事に合格し、1ヶ月後にあった引っ越しの時にも痺れはあった。

ただ、もうほとんど気にならないくらいになっていた。実家へ帰る車中では「卒論発表とか試験結果のストレスで痺れとかが出たのかなあ」としか思っていなかった。

この時は、実家に帰ってしばらく休めば、痺れは完全に治るかなと思っていた。

しかし、この痺れはそんなにたやすく消えてくれるものではなかった。

さらにここから半年近く痺れに悩まされることになるのだが、その話はまた別の機会に。

 

 

 

今回はここまでで。