同居7年目
同居が始まって7年が過ぎた。
君との生活はいつまで経っても慣れないままだ。
君は私を苦しめたがるのが好きみたいだ。
そろそろ辞めて欲しいんだけど、きっと言っても聴く耳を持ってくれないんだろう。
朝起きた時から君との闘いは始まるんだ。
起き上がろうとしたら君は全体重を身体の上に乗せてくる。
君は余りにも重いから、私は時々起き上がらなければ出来ない全てのことを──例えそれが大切な用事であったり、ご飯を食べるという生きる為に必要最低限のことであっても──諦めざるを得なくなってしまう。
奇跡的に私が闘いを制して起き上がれたとしても、君は私を嬲り続ける。
私の心の全てを見透かしてしまう君は、思ったこと全てに否定をし続ける。
「お前は何も出来ない」「こんなことして意味があるのか」「生きてる意味などない」「早く死んでしまえばいい」
こんな言葉を家の中でも外でも、私にだけ聞こえるように四六時中浴びせ続けるよな。
そうだった、君はストーキングが趣味だって事を書き忘れてた。
君は私の行く先全てについてくるんだった。
学校であろうが、ちょっとした旅行であろうが、全ての場所に君はついてくる。
片時も私の傍から離れようとはせず、私を虐め続けるんだ。
おはようからおやすみまで、傍を片時も離れずに延々と酷い言葉をかけ続けられる。
そんなことされて正気を保てるほど強くはない私はすっかりまともな生活が出来なくなってしまった。
君と闘って起き上がることはすっかり諦めて、布団の中で君の中傷を聴き続ける。そんな日々をもう7年以上過ごしている。
時々君の中傷に耐えきれなくなった私は、気まぐれに自分の指先に刃物を向けて傷つけ、ボロボロの指を作り出す。
他人が一日で摂取する食事量を一食で平らげてもなお何かを口に入れようとしてみたり、反対に3日近く何も食べずに水だけで過ごしたりする時もある。
君の罵声で眠れずに夜を明かすことも、君の罵声が聞きたくなくてひたすらに眠り続ける日もある。
そんな酷い生活全てを傍で見ている君は、ほくそ笑んでまた言うんだ。
「お前みたいな人間、早く死ねばいいのに。」
そうして生きている意味がすっかり分からなくなった私は、君と別れるための手段として死を選ぶ。
踏切に飛び込もうとしてみたり、自分の体に包丁を突き刺そうとしてみたり、薬を大量に摂取したり、首を吊ろうとした。
それでも最後は上手くいかない。
人間としての本能が、私を死へと導いてはくれない。
そうしてまた、君と顔を合わせた私は、「もう嫌だ、会いたくない。」と涙を流していく。
君のことは僕以外誰も正確には認識できない。
時々君の嫌がらせを誰かに伝えるんだけれど、どうしても全てを他人は理解してくれないようだ。
「どうして当たり前のことが出来ないの。」
「死にたいなんて言わないで。」
そんな言葉を並べられて、私は君という存在を恨み、君とまともに闘えない自分を呪う。
それを見てまた君は、私を苦しめることが出来たと満足そうに笑うんだ。
君に虐げられてきた私は、ついに認識が歪んでしまう。
会う人全てが、君に見えるようになった。
言葉をかけられると同時に君の言葉が聞こえるような気がするようになった。
他人に君が乗り移って私を見つめている。そんな錯覚を起こすようになった。
そうするとますます他人が嫌いになった。
家から出ることが怖くなった。
世界の全てが、自分の敵に思えるようになった。
誰もが君の味方だと思うようになった。
そうして私は、人目を避けるようになった。
それを見て君はまた僕を嘲笑する。
こうやって君のことを書き並べている今も、君は私を苦しめ続けている。
もう3ヶ月以上、毎日三食という生活は送れていない。3日近くの絶食と平均的な一食を遥かに超える過食を繰り返す日々だ。
24時間以上起きていることも、12時間以上眠る時もある。
起き上がることが、他人といることが辛いから家から1歩も出ない日が何日も続いたりした。
身だしなみなんて気にすることさえ出来ず、気がつけば1週間近くお風呂に入っていなかった。
今の私は、他人に会える状態ではないという事だけは認識できている。
それだからこそ、今は誰とも会いたくない。会いたくないけれど誰かにこの気持ちは伝えたい。
このワンルームで君と二人きり。
それは私にとって「当たり前の日々」と化した拷問だ。
こんな私にも立派に夢はある。
なりたい人生も、やってみたいことも一応はある。
それら所謂希望と呼べるようなものを、諦めざるを得ないように君は私をじわりじわりと追い詰めていく。
詰められる度、私は余りにも君の存在を恨み、君を追い出したいと心から願う。
でもそれは決して叶わない。君は一生、私についてまわる運命なのだから。
もう疲れたよ、君との同居。
そう言っても君はきっと、明日も私の隣に居続けるはずだ。
相変わらずきっと、私を苦しめ続けるのだろう。
そして苦しむ私をみて、笑って、楽しんで、また私を虐めるんだろう。
いつか私が息絶えるその日まで、私の傍から離れるつもりは無いんだろう。
なあそうなんだろう、「鬱病」さん。
2019年度プロ野球 私感
昨日で私の2019プロ野球シーズンは終わった。
余りにも呆気なく、まるで一握の砂のように零れていった。振り返ってみればそんなシーズンであった気がする。
(私はチームで言うと広島東洋カープと埼玉西武ライオンズのファンだ。歴で言うとカープの方が長いのだが、今は両チームを応援している。
選手個人だと12球団全てに好きな選手がいる。どうしてカープとライオンズを掛け持ちするようになったのか、については別記事で書きたいと思う。)
2018年シーズンにおいて広島東洋カープと埼玉西武ライオンズ、両チームはリーグ優勝という名の栄光を掴んだ。
歴代最強と言って過言ではない打線に引っ張られるようにチャンピオンフラッグを掴んだ両軍はそれぞれに課題を残し、別れを経験した。
(広島東洋カープは日本シリーズまで進むも3年連続で日本一を逃し、『3番中堅』の丸佳浩がFA、新井貴浩が引退。埼玉西武ライオンズはクライマックスシリーズでソフトバンクに破れ、『3番二塁』の浅村栄斗がFA、菊池雄星炭谷銀仁朗のバッテリーがポスティングとFAでチームを去る。)
ファンはある程度チームを立て直すことを望み、だが心のどこかで「それでも、このチームは勝てるはずだ。きっと日本一になれる。」と淡い期待を浮かべる。そんな気持ちで2019年の開幕を迎えたのではないだろうか。少なくとも私はそうだった。
広島東洋カープはまるで乱高下を繰り返すかのように今シーズンを過ごした。投手が上手く相手打線をかわしつつ耐えるものの打線の援護がなく、敗北を喫する日。全く反対に打線が噛み合うも投手が炎上し、苦杯を舐める日。そんな日が交互に訪れるようなことがシーズン序盤は多かった。
GW明け、歯車が噛み合うように連勝を重ね、一時は8あった借金を完全返済し、貯金を重ねた。しかしそうして首位に立ったのはほんの一瞬だった。
カープの長年の鬼門である交流戦でそれまでの勢いはあっという間に失われ、夏が始まる頃には首位をあっさりと明け渡してしまう。
「このチームはこんなはずではない。」
「このままで終わるような人達ではない。」
『1番遊撃』田中広輔の不調。定まらない3番打者。齟齬のある、どこかちぐはぐなチーム。それでも、はなお、選手達の「諦めていません」という言葉を信じていた。
選手が諦めないなら、最後まで応援しよう。そう思っていた。
しかし、その思いも虚しくカープは調子を上げられることはなく、3位の位置で落ち着いていくようになってくる。私の想いも「優勝して欲しい」から「CS本拠地開幕をして欲しい」へと変わり、よく閲覧しているカープファンの方のツイートにもどこか達観に似た諦めが目に見えるようになってきた。トレンドに挙がったカープファンのツイートには監督、選手等への暴言や心無い言葉が溢れるようになってきた。
そして私は、広島東洋カープから目を逸らすように埼玉西武ライオンズに熱を入れるようになる。
今振り返ると殺伐としてしまったカープ界隈から少しでも離れたかったのだろう。
ライオンズも同じようにAクラス争いを繰り広げていたが、私の捉え方は違っていた。
「よくやっている」
「Aクラス争いをするなんて」
こんな思いが試合後の結果を見る度に胸に去来していた。
『3番二塁』と『エース』と『正捕手』を一気に失ったチームがAクラスに入るわけがない。
私はシーズン前、失礼ながらライオンズにそう思っていたのだ。
シーズンが進んでいくたび、それは魔法のように埋まっていく。
外崎修汰のセカンド定着、今井達也や本田圭佑らの台頭、森友哉の攻守の活躍。
1試合が終わる度、ゆっくり着実に失ったモノを既存の人達が補っていく。そんなチームだと見ながら感じていた。
「もしかしたら、もしかするかもしれない。」
8月が進む度にそんな気持ちが膨らんでいった。
それは他のファンも同じだったようで、トレンドにライオンズ関連のフレーズが載るたび、ボルテージが上がっているのを感じた。
そして、首位に立ったその日にそれは確信に変わった。
「ライオンズは優勝できる」と。
そこからはあっという間だった。
9月、強固な打線によって畳み掛けるように勝ち星を重ねたライオンズは142試合目で連覇という名誉を手にした。
まるで夢のようなシーズンだと感じ、浅はかなファンである私はもうひとつ淡い期待を抱いてしまった。
「これは、今年こそ日本シリーズまで進めるのではないのだろうか。」
去年見た辻発彦監督の涙が、悔しそうな選手の顔が、今年こそ笑顔に変わる時が来るのではないのだろうか。
そう思っていた。
そんな淡い期待は脆くも崩れていった。
第1戦目の逆転負け。その後私は縋るように信じていた言葉がある。
「このチームはこんなはずではない。」
「このままで終わるような人達ではない。」
馬鹿な私は、数ヶ月前カープに思ったそれをそっくりそのままライオンズにも思ってしまった。
そうして、ライオンズが、つい先日まで見せていた畳み掛けるような攻撃を、「まさに『ミラクル元年』」と揶揄された勝利を掴んでくれると信じながら、一球速報にしがみついていた。
その思いも、悲しいことに勝利の女神には届かなかった。
全てが終わった今、私は空虚感に苛まれている。
半年以上に及んだプロ野球が終わりを告げたということからだろう。どう足掻いてもこの事実は変わらないのにもしかしたら明日も試合があるかもしれないと思ってしまう。そんな奇跡はもう起こらないのに。
そして、同時に私は後悔している。
もっと真剣に彼らを見つめていればよかったと。
どれだけ巻き戻したくても、過ぎた時はもう戻らない。
「2019年の広島東洋カープ」
「2019年の埼玉西武ライオンズ」
これらはもう、生で見ることは二度と叶わないのだと言うことに私は恥ずかしながら今更気付かされたのだ。
「当たり前は当たり前でない。」
至極簡単なことを私はやはり日々の中で忘れてしまう。そして、自分の都合の悪いことから逃げてしまうという悪い癖がどうもついているようだ。
夏のあの日、カープから逃げてライオンズに逃げたことも、クライマックスシリーズをテレビで見つめず一球速報に頼ったことも。
テキストではなく、映像で、できれば現地で彼らを見つめていればもっと違う何かが見ることが出来て、それらから何かを感じられたのかもしれないと本当に後悔している。
もう少し私はプロ野球について真摯に向き合うべきなのではないだろうか。
これは来年への課題としてシーズンオフの宿題としたい。
そして、来年は今年より、良い野球オタクライフを過ごせるようになればいいなと思っている。
ダラダラと書きすぎたので今回はここまでで。