オタクのKさん

忘れたくない今の気持ちと思い出せた過去の書きだめ

原因不明のしびれに悩まされた半年

 

 

 

 

 

 

 

 


今回は、前回記事の終盤に登場した、あの痺れについて書き記したいと思う。

 


結論から言うと、痺れの原因は分からずじまいでした。

なんだかスッキリしない終わり方になるけれど、それでもいい方は読み進めてほしい。

 

 

 

 


前回の話は読まなくても分かるけれど、読んでいた方が痺れが出るまでの過程を理解しやすいかもやすいかもしれない。

 

 

 

 


記事内の必要部分をまとめると下のようになる。

 


2020年2月10日の夜、卒論発表のための作業を終えた私は眠りにつこうとした。すると左足の薬指あたりが痺れていることに気づいた。

その時は、「座椅子に長く座ってたから足が痺れているのかな。寝れば治るか。」くらいにしか思わず、眠りにつくまで苦労はしたが、就寝した。

 


翌日目が覚めても痺れはとれておらず、範囲は両足の裏に広がっていた。例えると整骨院などにある電気を流して治療する、あの機械を強めにした時のような痺れ。

 


困惑したが卒論発表の準備を強行する。普通の椅子に座ってパソコンと向き合っていても足の裏がむずむずしてたまらない。痺れが酷くなると立ち尽くして動けなくなるほどだった。

夜になると痺れは酷くなる。ピリピリした感覚が足を這いずり回る感じがして不快だった。

 


痺れは日に日に強くなり、卒論発表当日には痺れは両足の膝から下と手首から先に広がる。他人の発表を集中して聞くことも難しかった。

 


卒論発表を終えると痺れの強さは少し弱くなった。しかし、完全に消えたわけではなく、時々ピリピリと弱い痺れが現れる。ここら辺から太ももや二の腕に静電気のように一瞬だけ走る痺れも現れ出した。

その後、1ヶ月程かけて段々痺れは弱くなっていき、3月下旬の引越しの際にはほとんど気にならない程度になっていた。

 


ここまでが前の記事で書いていたことだった。

 

 

 

 


2020年4月。

手足のしびれは収まらず、言葉通り四六時中痺れていた。特に夜になると痺れが強くなったような気がして、堪らずに足を擦り合わせ、眠りに落ちるまでなんとかやり過ごしていた。

 


症状が始まって2ヶ月も経つと。痺れに対する違和感はいつの間にか不快感に代わっていた。

コロナウイルスが騒がれだした時期でもあり、痺れの不快感と未知のウイルスに対する不安感で、眠れずに朝を迎えることも何度もあった。

 

 

 

 


病院に行こうにも何かに行けばいいかわからないため、ひたすら「手足のしびれ 病気」で検索しては「もしかしたらこんな病気なのかもしれない……」と考えては鬱屈となりを繰り返していた。

 


このまま一生治らないのでは。

そもそもなんの病気なのか。

こんな症状が出る心当たりはあるか。

そんなことばかり考えながら毎日過ごしていた。

 

 

 

そんなふうに過ごし、5月。

ある日の入浴後、気づいたら太ももに湿疹ができていた。

翌日かかりつけの病院にいき、薬を処方してもらった。

ついでだと思いしびれのことについても相談してみた。(かかりつけ医は内科と皮膚科を兼ねている)

「ん〜ちょっとわからないな〜。とりあえず血液検査やってみようか。」

そう言われ、その日は採血をして帰宅した。

 


次の診察時、かかりつけ医は少し困った顔をしながらこう言った。

「血液検査の結果はね、特に異常はなかったよ。異常がないということは、内分泌系の疾患ではないんだよ

ね……。」

私はその言葉を聞いて困惑した。てっきりホルモンバランスなどの崩れで起こっているものだと思い込んでいたからだ。

「もしかしたら骨なんかが神経を圧迫しているかもしれないから、次はCTとMRIを撮ろうか。」

かかりつけ医はまた新たな検査を提案し、私もそれを受け入れた。

 


そして3度目の診察時。

 


かかりつけ医はまたしても曇った顔をしていた。

「うーん……これがCT。特に変わったところはなくて、こっちがMRI。ちょっとこの辺にポツポツと白いところが見あたるけど、特に目立った異常はないんだよね。」

見ると脳の中にポツポツと白い点があるが、素人目に見ても普通のMRIに見えた。

私はとても困惑した。全くと言っていいほど異常はないのに、なぜ私の手足は痺れているのか。こんなに検査をしてるのに原因がわからないのはどうしてなのか。

かかりつけ医はそんな私の様子を見ながら言葉を続けた。

 


「Kさん、大学病院への紹介状を書きますから、そっちへ行って詳しい検査を受けてみてください。」

 


気づけば5月も中頃になったある日の午後だった。

 

 

 

 


5月も終わろうとしているある日、私は大学病院へ向かった。

 


この頃には痺れは一日の中でも強さが変化していくようになっていた。

朝から夕方まではやや弱く、夕方から夜は段々と強さを増し、就寝時には強くなるといったようにだ。

しびれに対しても

 

 

 

2時間近く待たされて通されたのは線の細い医師のところだった。

「Kさんですね、今日はどうされました?」

私は紹介状とMRIの結果が入ったDVDを医師に渡した。

「うーん、たしかに目立った異常はないですね。とりあえずベッドに横になって見ていただけますか?」

そうして横になると医師は膝の当たりを押さえたり、足を持ち上げたりしながら私に問診をした。

「特に問題はありませんね。」

問診を終えた医師はあまり表情を変えることなくそういった。

MRIに映っていた白い斑点も痺れを引き起こすようなものではなかった。

「もう少し詳しく知るために、もう一度MRIを受けましょう。あとこの後眼科に行って検査を受けてください。」

 


その後は真っ暗な中で光を追う検査をしたり、なんだかんだ30分くらい検査をした。そこでも特に問題はなく、強いて言うなら視力が思ったより落ちていた。

 

 

 

 


2度目のMRIは過酷だった。たぶん精神的に不安だったのだと思う。途中で気分が悪くなって予定した検査(なにかしらの薬品を飲んでMRIを撮る)ができなかった。

 

 

 

 


三週間後。

「うーん、なんともないですねえ。」

言われた言葉はやはり腑に落ちない言葉だった。

 


なんで?こんなにビリビリして、足がむずむずして、耐えられないのに?何もないわけないじゃん!

 


だけど実際、身体の組織に器質的な変化はなかった。

ぐっと言いたい気持ちを堪えて、医師の話を聞く。

その時の話はほとんど頭に残っていない。

たぶんありきたりなことだけ言われたのだと思う。

帰ってから家族に結果を言っても首を捻るばかりだった。

 

 

 

 

 

 

私を苦しめ続けた痺れの終わりはあっけないものだった。

9月に入ると痺れがだんだんと収まり始め、下旬に差し掛かる頃にはあっという間に鎮静した。

 


あまりにもあっけなく痺れが消えて、ほっとしたと同時に、どうして痺れがずっと続いたのかという疑問を覚えた。

 


今振り返るとおそらくストレスが原因の心因性のものだったのかなと思う。

痺れが始まった時は、卒論が終わったと同時に卒業がかかった試験などで毎日つらいな、しんどいなと思うことが多かった。

そういう気分が積み重なって、痺れという形で身体に出てきたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スポンジでありたい

 

 

 

 

怠惰な自分を変えたくて最近自己分析をしてる。PDCAサイクルで言うところのPの前段階として、自分がどういう生活を送ってるか、どういうことを考えるのかを紙に書き出している。

 


こういうことをしている時はとても楽しい。

普段じゃ絶対気づかないことを知れるし、なにより書けば書くほど頭がスッキリする。

スッキリした頭になるとアイデアがよく思い浮かぶ。ただ、光の速さで忘れてしまうのでメモしないといけない。

記憶力落ちたな〜とこういう時によく思う。

 

 

 

 


読書ノートをつけることにした。

もともと読書は同じ本を何度も読んで身につけるタイプだったから1度では覚えきれない。

ビジネス書や自己啓発本の覚えておきたい部分をピックアップしてまとめ、より記憶に定着させやすくするのが目的で始めた。

 


今は「嫌われる勇気」という本についてまとめている。

この本を読むのは3周目だ。

1周目は読んだけどちんぷんかんぷんで映画ゲド戦記を初めて見た時くらい訳が分からなかった。

2周目は頭では理解出来たけど心が追いつかなかった。アドラー心理学の言葉が当時の私には痛々しく刺さりすぎた。

3周目の今回でやっと理解ができた。というより私の心が理解できるまで回復した。

読み終わったあと何度か読み返したが、その度に「本当に劇薬のような本だなあ」と思う。壊滅的に鬱の思考とは相容れない。だがアドラー心理学の思考を手に入れられれば少しは生きやすくなるかもと思わせてくれる。

 

 

 

相容れない思考を柔らかく身につけられるメンタルでありたい、スポンジのように生きていきたいものだ。と嫌われる勇気を読み返しながら常々思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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祖母の家でじゃがいも植えを手伝った。

農作業も楽しいなと初めて思った瞬間だった。

半年ぶりなのでリハビリ書き

 

 

 

 

 


久々に開いたら最後の記事が半年前と書いてあって、時の流れに仰天したKです。

 

 

 

 


「そういえばここんところ腰すえて文章書いてないな…。よっしゃ!リハビリがてらブログ書こ!」と思って書いてるんですけど、正直書くこと思いつかないんですよね。

 


特に直近2週間は自尊心が壊滅的に無い時期だったので何も出来ずに終わって、さらに自己肯定感を失ってましたし。

何も出来てないんで書くネタもないんですよね。

 

 

 


あ、でも料理はサボらずにできてた気がします。昨日はカレー作りました。

 


カレーって楽そうに見えて結構大変ですよね。

まず野菜を大量に切るのが大変。たまねぎとか1個切るともう涙が溢れて目からダダ漏れ

お肉も大量に使うんで1口大に切るの面倒なんですよね。自分は豚肉と牛肉の小間切れ買ってきてそのままドーンって入れます。

最後に使った調理器具類を洗うのが大変なんですよ。油汚れだからスポンジ汚れるし、しっかり擦らないとこびり付いたカレールーが取れてなくて後で気づくというトラップ。

 

 

 

でもカレー、めっちゃ人気なんですよね。自分とこは5人家族なんですけど、15人前くらい作っても絶対に2日で綺麗になくなる。

同じ量のシチューは下手したら4日目起きたら「まだシチューあるじゃん…。」って思って、昼ごはんで食べ終えて「やっとシチュー食べきった…。」ってなるレベルなのに。

ルー以外は同じ材料使ってるのに、不思議だ……。

 


まあでもいっか。カレー美味しいし。

 

 

 

 

 

 


今回はここまでで。それではまた。

限界大学生が卒業するまでの半年間の記録

 

 

 

 


2019年10月、私は焦りに焦っていた。

 


「もうすぐ締切だ……」

 


1年の休学を経て、4年生として復学をした私は、卒業までの最低取得単位数まであと2つとなっていた。

読んでいる貴方は、「それなら焦る必要はない、普通に授業を受けて単位が取れたら卒業出来る」と思っただろうが、私には強敵が待ち受けていた。

 

 

 

卒論。

それは大学生最後にして最難関の課題。

私は卒業を半年後に迎えているにも関わらず、それにほとんど立ち向かえてなかった。

 

 

 

 

 

 

 


そもそも私が休学した理由のひとつは「今の精神状態では卒論に取り組めないから」であった。

3年の夏季休暇中に行われた実習で精神的にかなり不安定となり、卒論はおろか人間としての生活全てにおいての気力がほぼ失われてしまっていた。

 


まず、1日1食が常になっていた。

食事をまともに食べられず、食べることすらめんどくさいと丸3日何も食べなかったこともある。逆に1度の食事で2日分近くのカロリーを摂取したこともあった。

お風呂に入る気力はまず湧かず、最長1週間入らずに暮らした。

基本的に昼夜逆転の生活を送り、40時間近く眠れない時や15時間近く眠る時もあった。

そんなボロボロの状態では誰か知っている人に会うのが怖くなり、大学以外で外に出る時は決まって日が沈んでからだった。

 

 

 

そんな生活しか送れない身体でも、私は精神科に通院をしつつ、身体にむち打ちながらなんとか4年次へ進んだ。

高校の時に両親に心配と迷惑をかけさせてしまったこと、経済的に厳しいにも関わらず無理して県外の大学へ行かせてくれたこと、まだ未成年だった妹と弟にかかるお金の為に4年できっちり卒業して欲しいと入学時に言われたこと。それらをきちんと遂行したいがために無茶をした。

 


しかし、本格的になり始めた就活と卒論、国試対策に追われた私の身体はとうとう限界を迎えた。大学4年の夏休み明けに家から出ることが更に困難になってしまい、ほぼ1ヶ月近くキャンパスへ1度も行けなくなった。もうこれ以上大学生活を過ごすのは不可能だと私は判断し、両親へ休学を提案した。てっきり拒否されるかと思ったが、私の現状を聞いた上で両親は提案を受け入れてくれた。

すぐに担当医に相談し、意見書と休学届けを大学へ提出し、2週間ほどの審査期間を経て、晴れて私は1年間の休学を許可された。

 

 

 

 


休学となってからしばらく経ってもやはり外に出るのが怖く、生活も改善しないままで一人暮らしの部屋に閉じこもっていた。だが祖父母への現状報告のためにおこなった実家帰省を機に、休学中の殆どを実家で過ごすことに決めた。恐らく両親は久々に顔を合わせた私を見て、その生活の酷さを察して提案したのだろう。私自身もそれに同意した。

 


実家に帰ると私のやるべき事はグッと減った。料理炊事掃除買い物…今まで全て一人でやっていたことをやらなくて済む。もちろん大学へ行くことも食料調達のための強制的な外出もない。家から出られなくても平気に暮らせる。実家にいることでストレスはかなり減ったと感じた。実際食事に関してはかなり改善され、お風呂に入ることも2日に1度程度だができるようになっていた。

 


だが、実家に戻ってもどうしても定期的に一人暮らしの家に帰らなくてはいけなかった。処方された薬は長くても40日程度しか貰えなかったため、薬が切れそうになったら薬をもらいにアパートへ帰り、数日そちらにいてまた実家に戻るという、奇妙な生活をしていた。

 


近い方が遅刻ギリギリでも大丈夫だと思って選んだアパートからは大学が見え、最寄駅に向かう道のりでも大学構内の1番高い建物が目に入る。

病院で薬を受け取った後、泊まるためにアパートに向かっていく時、特徴的なデザインをしたその建物は、嫌でも見える。

私はそれを見るのがとても苦痛だった。

劣等感、申し訳なさ、悔しさ、不快感、1年後にはまた行かなきゃならない使命感と恐怖感。建物が見えた瞬間あらゆる感情が一気に胸の奥から飛び出してしまうので、私はいつも俯きながら歩いていた。

 

 

 

 

 

 

休学中、私は現実から目を逸らし続けた。

これから待ち受けている卒論にも国試にも、目を逸らし続けた(就職に関しては無理にしなくてもいいと言われたので、新卒での入社は諦めた)。

当時はただひたすらゲームやネット、睡眠に逃げていた。推しのグッズが欲しくて数ヶ月だけ倉庫でのピッキングのアルバイトもした。時々友人にあってはたわいもない話で盛り上がった。

この時ほんの少しだけでも卒論や国試に目を向けられたら良かったのにと今振り返ると思う。

だが同時にそれが困難だったということも理解出来る。

あの時、活字を読むのはかなりキツかった。読んでも内容が入らず、数行で脳が疲れてくる。新聞を読むことや読書は嫌いではなく、むしろ好きな方だったのが、この頃はよっぽど精神的に元気でない限り、活字は読めなくなっていた。

 

 

そして心は字が読めない事実も自己嫌悪や自己批判に変えてしまうので気分が辛くなってしまう。気分が辛くなるのは嫌だから活字はなるべく見ない。

そんなループが毎回起きてしまい、卒論は全く前に進めなかった。

卒論の担当教員は優しい方で何度も私の体調を心配するメッセージを送ってくださった。自分が研究室にいる日を教えてくださったり、役立ちそうな資料を代わりに集めたりもしていただいたが、メッセージに返信することや資料を読むこと、卒論を書くことにはなかなか手がつけられなかった。

 

 

 

 

 

 

そして私は卒論から逃げ続けたまま10月を迎えた。

休学は終わり、大学へ復学する。

 


この時点で卒業までにはあと2単位足りなかった。

この条件だと私のいた大学の場合、卒業のためには 

・何かしらの科目を1つ履修し単位を取得すること

・卒論を完成させること

・卒論発表会に出席し卒論の発表をすること

が必要だった。

 

 

 

履修する科目は取得しやすさを重視して好きな分野になるべく近く、テストは持ち込みOKのものにした。

しかし1度目の授業に私は行けなかった。

猛烈なだるさと、ある気持ちが強く出たために起き上がれず、家から出られなかったのだ。

だるさはもう何年も付き合ってきているのでやろうと思えば何となく対処は出来たはずだった。しかし問題はある気持ちの方だった。

それは、「大学が怖い」だった。

この気持ちに気づいた瞬間、私はまだ大学に戻ることは無理だと思った。何とかもう1年休学を伸ばしたいと両親に頼んだが、それは叶わなかった。

私の事とは別の問題が起きていたからである。

 


「申し訳ないが無理だ、去年と今じゃ事情が違う」と電話で説明された時、私は直ぐに納得出来た。いくらどんなに気持ちが沈んでいても納得出来るような事情が、その時本当に起きていたからだ。

「仕方ない、頑張るよ」と両親に伝え、何とか自分を奮い立たせることにした。正直自信はなかったし、無理かもしれないとも思っていた。だけれど、これ以上の休学は無理なのだからやるしかないと自分に言い聞かせるしか無かった。

 


だけれど、11月になっても全く筆は進まなかった。昼間に家を出て一コマだけ授業を受ける。それだけで精一杯で、授業を受けた後の2日は動けないような日々だった。書かなきゃいけないと分かっていても書けない。身体も心も辛すぎて、どうしようもなかった。担当教員も連絡をくれるが返事すら返せず既読だけつけるしかなかった。

 

 

 

もう卒論も卒業も諦めようかなと思ってた矢先、友人が連絡をくれた。

それは数ヶ月前に応募したイベントに私と友人が当選したという報告だった。その文を見た時、正直夢かと思った。

応募した時、2人で、「こんなの倍率が高すぎるだろうから当たるのはまず無理だろうね」と言いながら応募したイベントだったからだ。

まず、当たったことは素直に嬉しかった。しかし、問題はイベントの日付だった。

開催日は、卒論提出締切の2日前。

過酷すぎる日程だった。

 

 

 

 


とりあえず母親に連絡をした。イベントに当たったことと、開催日が卒論提出締切の2日前だと言うことを言うと、母親はこういった。

「イベントに行ってもいい。お金は何とかする。だけれど、卒論を必ず出してから行きなさい。」

 

 

 

その言葉を聞いて私は卒論をするしか選択がなくなってしまった。その日の時点でこのイベントはもう二度と開催されないことが分かっていたからだ。

 

 

 

 

 

 

そこからの1か月、私はとにかく必死にもがいた。

辛いと叫び続ける心を必死になだめ、恐ろしいとさえ感じていた昼間に気力を振り絞って担当教員のいる研究室に向かった。正直に卒論は全然進んでないと言っても、担当教員は私を責めることも呆れることもせず、「一緒に頑張りましょうね」と言ってくれた。

彼女自身も書かなければならない論文があるのにも関わらず、私のことを常に気にかけてくださった。追加の資料を探し出してくださった時は本当に感謝しかなかった。

 


イベントに行くための準備なども考え、自分で決めた提出日はイベントの4日前にした。

そしてそれに間に合わせるように必死に書き進めたが、その直前の1日は地獄のようだった。

朝から夕方まで、担当教員の研究室でパソコンと向き合い、卒論を書いた。家に帰っても書き続け、書き終えられたのは午前5時だった。

とりあえず眠り、昼過ぎに起きてまた大学へ向かった。

担当教員によるチェックを行ってもらい、OKをもらって急いでPC教室へ向かった。機器の不調によって何度か印刷に失敗したが、無事に綺麗に刷り上がったものを提出した。提出担当の教員に「確かに受け取りました」と言われたのは午後5時2分だった。

 

 

 

アパートに帰り、靴を脱いだ瞬間一気に力が抜けた。卒論の呪縛から解き放たれたのだ、と思うと心から安堵した。もう、『卒論をしなければいけないけれど、身体が言うことをきかない』『卒論を書かなきゃいけないけれど、脳が重くて書けない』『卒論すら進められない自分はなんでダメなんだ』という呪縛から解き放たれたのだ。そう思うと、嬉しくて仕方がなかった。

 

 

 

卒論を終え、晴々とした気持ちで参加したイベントはものすごく幸せな時間だった。

こんなにスッキリした気持ちになれたのはいつぶりだろうかというほど、現実を忘れることができた。

たぶん死ぬ前の走馬灯にあのイベントは出てくるはずだ。そのくらい思い入れのあるイベントになった。

 

 

 

 

 


時間は少し進む。

 


2月の第1週、唯一受講していた授業のテストがあった。今まで配布されたレジュメの持ち込みが可能だったので、休んでしまって手に入れられなかったレジュメ以外を持ち込み、分からないところ以外はきっちり埋めて提出した。正直自信はなかったが、レジュメをしっかり見て答えたのだから多分大丈夫だと不安がる自分に言い聞かせた。

テストが終わって息つく暇もなく、私は別のことに取り組まなければいけなかった。


卒論発表だ。

 

テストの日から発表までの約二週間、また担当教員の研究室に入り浸りながら発表用パワポを作った。されるであろう質問とその答えを一緒に考えながら少しづつ作っていった。

 

 

 

 


そんな中、異変は起きた。

2月10日の夜だった。少しだけ家で資料を作り、疲れたからもう今日は布団で横になろう。と床についたときだった。

左足の薬指あたりが痺れていることに気づいた。

ずっと座椅子に座ってたからかなと思い、その日は放置して眠ることにしたが、痺れが気になってなかなか寝付けなかった。

翌日、目が覚めても痺れは治っておらず、むしろ痺れの範囲が両足の裏に広がっていた。例えるなら整骨院などにある電気を流して治療する、あの機械を強めにした時のような痺れだった。

私は酷く困惑した。こんなことは生まれて初めてだったからだ。

 


だが、発表準備はしなければならないとその日も研究室へ向かった。椅子に座ってパソコンと向き合っていても足の裏がむずむずしてたまらない。夕方、家への帰路の途中、左足が酷く痺れてしばらく立ち尽くして動けなくなった。

痺れは夜になると酷くなるように思えた。ピリピリとした感覚が脚を這いずり回るのがとてつもなく不快だった。

 

 

 

痺れは治ることなく、むしろ日に日に強くなり広がっていった。

卒論発表の当日には、痺れは両足の膝から下と、手首から先に広がっていた。

卒論発表では自分以外の他人の発表も聞かなければならなかったが、正直自分の発表のことと痺れのことで頭がいっぱいだった。

 


そして、順番となり、私は教卓の上に立った。

教室の中にいる30人ほどが私を見つめている。その感覚が恐ろしく思え、顔がどんどん火照っていくのが分かった。声がうわずり、用意していた原稿を噛みながら読んでしまう。その間も手足の痺れはずっと続いたままだ。

 

 

 

なんとか発表をしながら私は「おかしい」と考えていた。今までこういう誰かの前に立つ場であがったことはあまりなかった。

ずっと習ってきたピアノの発表会ではこの何倍もの観客の前で弾いたこともあり、誰かの前に立つことには慣れているつもりだった。何度か緊張したことはあったけれど、ここまで顔が赤くなったことも、声がうわずったこともない。

前ならもう少し冷静に発表ができていたはずなのに、今はこんなに不恰好な発表しかできていない。

なんとか発表を何とか終えた瞬間は、今までとは違う「何か」が自らの中にあることを認めた瞬間でもあった。

 

 

 

卒論発表を終えると痺れの強さは少し弱くなった。しかし、完全に消えたわけではなく、時々ピリピリと弱い痺れが現れる。しかも太ももや二の腕に静電気のように一瞬だけ走る痺れも現れ出した。

妙に不安になって自分で調べたりもしたが、結局原因は何も分からず、当惑するばかりだった。

 


卒論発表からさらに1週間後の試験結果発表時にも痺れはあった。無事に合格し、1ヶ月後にあった引っ越しの時にも痺れはあった。

ただ、もうほとんど気にならないくらいになっていた。実家へ帰る車中では「卒論発表とか試験結果のストレスで痺れとかが出たのかなあ」としか思っていなかった。

この時は、実家に帰ってしばらく休めば、痺れは完全に治るかなと思っていた。

しかし、この痺れはそんなにたやすく消えてくれるものではなかった。

さらにここから半年近く痺れに悩まされることになるのだが、その話はまた別の機会に。

 

 

 

今回はここまでで。

 

 

これはきっと『推し依存』

 

 

 

 

 

 

 

今月に入ってから、推しに降りかかった出来事で凹んだことが2度あった。

心身の不調も相まり、直近の5日間では外に出ることはおろか、家事をこなすことや起き上がることすらままならない日もあった。

今は少し回復し、気持ちも前向きになりつつあるが、また気分の落ち込みが来て他人へ迷惑をかけるのは忍びないので、週末にあった予定を泣く泣くキャンセルすることにした。

 


辛いことばかりを反芻し、落ち込むことばかりを繰り返し考えてはまた嫌悪感に沈んでいく『気分の底』の状態を抜け出すことができ、少し動けるようになったので、2日振りくらいに入浴していた時、ハッと気づいた。

 

 

 

 

 

 

これは、「推しに依存しているのではないだろうか?」と。

 

 

 

 

 

 

振り返ると昔から何かに依存しながら生きてきたように思う。中学の時は1人の友達に依存して相手を困らせたり、高校ではネットに依存して辛い心からの逃避をしていたりもした。たぶん依存体質なのだろうとは数年前から薄々感じていた。

ただ、これらと今回の依存は性質が少し違うように感じる。

それは、「感情の主導権まで依存させているか」という点だ。

 

 

 

友達への依存やネットの依存は、それで心身の安定を図っていた面があるにしろ、感情そのもののコントロールは自らが担っていた。他人に酷く情緒を乱されることがあったとしても、それは自分の行動が原因の一端を担っていることもあったし、そうでないこともあった。もちろん依存先での出来事で悲しくなったり落ち込んだりすることもあったが、それが生活に支障が出るほどであったかといえば違った。

 

 

 

 

 

 

しかし、今の『推し依存』はそうではない。

推しに感情移入しすぎているのか、私の理想を押し付けすぎているのかは今の所分からないが、推しの行動とその結果に、あまりにも自分自身の感情が左右されすぎている。実際直近3日は推しの事を思っては悲しみ、何をしていても推しが頭をよぎった。

 

 

 

確かに推しの行動によって感情の起伏が生まれるのは、オタクにとっては当たり前に起こりうることだと思う。オタクはそれぞれ『理想の推し像』があり、それに出来るだけ近づいて欲しいと願う我が儘な生き物だからだ。(と私は勝手に思っている)

『〜〜ロス』、なんていうものは恐らくその最たるもので「そんな…推しがこんな風になるなんて…」という気持ちを多数が持ってしまうことをこの言葉は指しているはずだ。

 

 

 

ただ自分の場合は、推しに握られている感情の割合があまりにも大きすぎるのではないのだろうか。と今回気づいた。

描いていた理想の推しの姿ではなくなったのは辛い。だけれどそれによって日常生活に支障が出てしまうというのはかなり危険な兆候だ、と考えた。

今の自分は、「自分でない人間に、自分の感情のハンドルを握らせている」状態になってしまっている。

 


このまま『推し依存』を続けてしまうと、下手すれば「推しがもう理想でなくなったから私はもう生きられない…」となるかもしれないし、「推しが不当な扱いを受けるのはおかしいから不当な扱いをしている奴に攻撃するぞ!」となるかもしれない。

こうなってしまうと、オタクではなく危険人物となってしまうし、健全な人間の精神ではなくなっている。

もちろん目指している自分の生き方とも程遠い。

 

 

 

確かに今回の出来事達は、自分の解釈とも理想とも合わず、辛く苦しいものだった。まだまだ受け入れるのには時間がかかるだろうし、きっと思い出す度に複雑な気持ちになる。

だけれど、それとは別として自分は自分の人生を歩まねばならない。

やるべきタスクも、やりたいこともあるし、解決しなければいけない課題もある。それを全て放棄して、理想の推し像とのズレを悲しみ、感傷にどっぷり浸って動けなくなるのは絶対に違う。

 


悲しみだけでなく怒りもそうだ。少し前まで自分は、ある推し達(今回の気持ちの凹みの要因になったのとは別の推し)に降りかかった出来事に非常に怒っていた。だが、よく考えれば理想とのズレで非難し続けるのも恐らく違う。

それは『怒れるオタクの自分』『正論を言って推しに物申している自分』に依存して前に進めなくなっているだけだ。自分自身が怒りの対象に感情のハンドルを預けたくせに、怒りの対象のハンドルさばきに文句を言っている。

あの頃の自分は迷惑なクレーマーのようだったのだなと自省した。

 

 

 

 

 

 

出来事への感情は一旦置いておいて、とりあえず切り替えて別のことをしなければならない。

きっとそういう場面はこの先何百回もやってくるはずだ。

たぶん今までの自分はそういう出来事と自分の感情の切り離しが上手くできず延々と悩むことが多かったのだなと気づかされた。元々感受性が強い人間だったのが、推したちには特に強く想いを寄せてしまい、今の感情を寄せすぎた依存のような状態になってしまっている。とも考えられる。

 

 

 

 


とにもかくにも、自分に対してまた新たな発見が出来たことはとてもありがたいので、この3週間私の心をかき乱し続けた推したちには心の底から感謝したい。

ありがとう、推したち。

 

 

 

 

 

 

 

真夜中の祈り

 

 

 

 

眠れない時には、よく考え事をする。

考えることはその時によってバラバラで、

”明日の試合に推し選手は出るかな” ”夜ご飯何にしようかな” という軽いことから、

”今生きてる意味って何だろう” ”私と他人の境界はどこからなのか” という命題的なものまで幅広い。

これらを一晩でいくつも、考えてはやめて、また考え出してと繰り返していくと、大抵いつの間にか眠りにおちているのだ。

 

 

 

 


ただ、時にはそれでも眠れない時がある。

今日もたまたまそういう日で、わたしはある人のことを思い出していた。

今振り返ればきっと、わたしの目にはその人は一際綺麗に映っていたのだとおもう。

あの頃も明確に好きという感情ではなかったけど、どこか素敵だなと思っていた。

寡黙で少し怖い雰囲気だけれど、とても字が綺麗で真面目な人。そんな印象だった。

もう少し近づきたかったけど、近づくと困らせてしまいそうで、わたしは遠くからそっとその人を見ていた。

そんな関係だったから、今のわたしはその人への連絡手段を一切もっていない。

その人が今どこで何をしているのか。そもそも生きているのかさえも、もう分からない人だった。

 

 

 

 


「あの人、今何してるんだろう。」

気になりだすと、納得できるまで探し出すのが私の悪い癖で。検索エンジンを開いてその人の名前を打ってみた。

一番最初に出てきたのはとあるホームページで、なにかの紹介ページだった。

ページを開き、ゆっくり読み進めていくとその人はあっさりと見つかった。

あの頃の面影が少し残る、あの頃よりも素敵な笑顔で、その人は写真に収まっている。

スーツを纏ったその姿は、わたしの目にはあの頃と同じように、一際綺麗に見えた。

 


そうか、生きていたのか。この人はここで頑張っているのか。

 


よかったと安堵したわたしは、そのページを閉じると、またぼんやりと考えだした。

どうかそのまま、健やかに、穏やかに、健康を損なうことなく、わたしの手に入れられなかったものを持ったまま、幸せになってほしい。

どうか、無事に生きていってほしい。

 


そう思った後、この気持ちを客観的に見るとまるで神への祈りのようだなと思い、よくわからない笑みが溢れた。

 

その日は、いつもより少し穏やかに眠れた気がする。

 

 

 

 

あの日、iPodだけが友だった

 

 

 

 

 


物心ついたときから音楽が身近にあった。

 

 

音楽好きの両親のもとに生まれたため、恐らく胎児の頃から音楽は耳に入っていた。産まれてからは家の中に設置してあるステレオコンポやカーステレオから更に音楽を吸収し、4歳の時に習い事としてピアノを始めたおかげで自ら音楽を奏でられるようにもなった。

小学生までは両親の好みである1980年代から90年代のヒット曲ばかりをカーステレオで半ば強制的に聞かされつつ、ピアノの課題曲や発表会で演奏するときの参考のためにクラシックなどを聞いていた。

 

 

 

 

恐らくこの頃のほうが現在より音楽に対して時間・体力・気力を割いていたようにも思う。しかし今になって振り返るとそこには常に義務と強制の気持ちが付きまとっていた。

 

なぜなら小学生の時の私にとって、音楽は「嫌でも弾かなくてはいけないもの」であり、「私の意思とは関係なく聴かなくてはならないもの」だったからだ。

 

 

 

ピアノをやりたくないとサボっていたら必ず母に『やりなさい』と言われていた。ミスを続けていると『どうして出来ないの』と言われ、時には声を荒げられることもあった。涙でぼやけた視界の中でひたすら鍵盤を叩いていたこともある。

 

「やらなきゃ怒られる」「覚えるために聴かなきゃいけない」「上手くできるように練習しなきゃいけない」の気持ちが常に付き纏う音楽の事は、好きではなかった。むしろ学校で「ピアノやってるから音符読めるし上手く出来るよね?だからこれやってよ」と木琴やアコーディオンの係をやらされたりもして少し億劫なこともあった。

小学生(特に高学年頃)の私にとって、音楽は「それなりにできることは自慢できるが、強制イベント的にやらなくてはいけないめんどくさいもの」であった。

 

 

 

中学生になった時、部活動に入ることになった。その当時は学校の規則として全員なにかの部活動に所属しなくてはいけなかったからだ。

 

 

 

帰り道、『部活動どうするの?』と友人に聞かれた私は、少し考えてこう言った。

 

『とりあえず、吹奏楽部は嫌だな。』

 

友人は酷く驚き、なんで嫌なの、私吹奏楽部入ろうと思うんだ、どうせなら音楽やってるんだから一緒に入ろうよ、とまくしたてられたが、私は乾いた声で一言呟いた。

 

『これ以上音楽と関わる時間を増やしたくないんだよね。』

 

平日の部活動が終わるのが午後6時、そこから家に帰って恐らく1時間ほどピアノの練習しなくてはいけない。休日も3時間ほどは練習に費やす。それに加えて吹奏楽部に入ると平日は2時間、休日は少なくとも半日は楽器と触れ合わなくてはいけなくなる。もうこれ以上音楽に関わる時間を増やすのは嫌なんだよね。

 

 

言い方は少し違えど、確かこんなことを私はその時友人に言ったと思う。私の説明を聞いたあと、友人は少し寂しそうに笑って「そっか、なら仕方ないね。』と呟いていたことだけは、私の脳裏に強く焼き付いている。

 

 

 

 

 

結局私は、消去法で残った美術部に入部した。

 

きっとどこもそうだろうが、美術部というのは往々にして変わった人が集まる。私の所属した美術部も多分に漏れず変人の巣窟であった。(この美術部で起こった話は書くと長くなるのでいつか纏めて記したい)

 

そこで私は今まで知り合ったことのない人とたくさん出会った。

 

知らないもの、知らないこと、知らなかった世界を教えてくれる先輩や同級生、顧問の先生と話していくうち、少しずつ私の中に「もっと知らないことを見てみたい」という気持ちが芽生えてきた。

 

 

 


この頃から少しずつ自発的に音楽を集めるようになっていた。

大抵は部活中の会話で同級生から勧められた音楽をインターネットで探して聴き、その感想をまた部活中に共有するというものだった。

当時はインターネット環境が家に無かったため、母の勤め先にいる方の家にお邪魔し、パソコンをお借りして曲を探していたため、一度に探せる曲数には限りがあった。しかし自ら進んで、興味を持った音楽を探し、聴き、感情を動かされ、それを身近な人と共有するということは私の音楽に対する思いを変えてくれた。

今まで「発表会があるから嫌でもやる」「覚えるために聴かなきゃ」と義務感を持って付き合ってきた音楽と、この時に初めて仲良くなれた気がした。

 


そうして出会った曲がきっかけで初めてCDを買ったり、新たな友人が出来たり、別の曲と出会ったりもした。音楽への認識が変わったことが、確実に私自身を少しずつ変えていった。

 


中学3年の頃、私はiPod touchが欲しいと親に言った。存外すんなりとそれを受け入れてくれた親は、秋にそれを私に買ってきてくれた。

好きな曲を詰め込んだ銀色のボディをしたiPodを私は溺愛し、愛用した。時には寝る前にイヤホンをつけて音楽を聴き、そのまま眠りにつくこともあった。

好きではなかった音楽を、この時やっと好きになれた気がした。

 

 

 

 


高校に入ってからの数ヶ月間もそれは続いた。往復1時間近い通学時間で音楽を聴き、帰って課題を終えてから寝るまでの間にまた聴く。変化した環境に慣れようともがいていく中で、音楽が楽しみの一つだった。

 

 

 

 

 


しかしあの日を境に、音楽と私の関係はまたしても変わってしまった。

 


「死にたい」を思ってしまったその日から、今まで聴いてきた曲を聞けなくなった。聴こうとすると歌っている彼らの華やかな姿を思い出し、自分の今の惨めな姿との対比に苦しくなった。

 

 

そして、音楽を失くした通学時間が耐え難いほどの苦痛を伴う時間となった。

 

 

 

周りで聞こえる同じ学校へ向かう人々の話し声。今まで気にも留めなかったそれらが全て私に向かって投げつけられる暴言のような気がした。ただの乗り物がまるで牢獄のように思えて仕方がなく、その時の私にとっての通学は絶望から出て地獄に向かい、地獄からまた絶望に帰るまでの道程にある、小さな牢獄に乗る時間となった。

 

 

 

親兄弟も友人も先生も、今まで聴いてきた音楽すらも信じられなくなった私は、世界中が敵になったように思えた。孤独に苛まれ、味方を求め、理解を欲した私が出会ったのが、『機械が歌う音楽』だった。声はあり、姿もあるが実際に生き物としては存在しない。歌詞に思いはあるが歌い手の感情は込められてない。人を信じられなくなっていた私に、人の匂いがしない曲はあまりにもすんなりと胸の奥に入ってきた。

 


あっという間に私はそれらを好んで聴くようになった。イヤホンをつけ音量をできるだけ大きくしてそれらを聴くと不思議と苦痛が和らぐ気がした。派手で打ち込まれたサウンドが周りにいる人間の声や雑音も自分の頭の中に反響する呪詛にも似た言葉も全てをかき消してくれた。過激で直接的な表現をした歌詞に自分の心境を照らし合わせて、共感したりもしていた。

 

 

 


純粋な「好き」として楽しめなくなった音楽を自分を守る為の盾として使う。そうすることでボロボロになった心を何とか引き留め、高校生活を過ごしていた。まるでお守りのようにiPodとイヤホンをポケットに入れ、少しでも空き時間があれば曲を聴いていた。音楽に包まれている時だけが、安定した精神を得ることができていたとすら思える。

 

側から見れば依存のようにも見えていたかもしれないが、依存しなければいけないほどその頃の私は追い詰められていた。死にたいが生きなければいけない。学校へ行きたいがいざ近づくと身体が震えて動けなくなる。ちぐはぐになった心と身体をつなぎとめるため、悲観的な方向へ暴走する思考を鎮めたいときや誰にも理解されない孤独を埋めたいとき、私は何故か数多に存在する選択肢から無意識に音楽を選んでいた。

 

 


そしてiPodが作り出す盾の中で私は少しずつ生きる気力を取り戻していった。感情を整理し、心と身体を整えることが可能になった高3の二学期頃からやっと少し落ち着いて勉強ができるようになった。家では何も気にせず休みたいと考え、勉強をすることは学校でやっていた。その時にも音楽を聴いていたが、それは私をより勉学に集中させるためのものとしてで、今までの付き合い方とはかなり変容したものだった。

 

この頃になると、中学時代に聴いていた曲も少しずつ聞けるようになっていた。ここまで戻ってこれたのかな、と思うと同時に少し曲の受け取り方が今までと変わったようにも感じた。

 

 

 

大学生になってからは音楽を選り好みすることが減った。音楽は私とは別の人が見る世界を知るためのものだと考えられるようになったのか、気になったものはなるべく聴くように心がけるようにした。

歌詞やメロディーから広がる他者の世界に共感したりすることを楽しいと考えて、新しい曲を日々探すようにした。曲が増えれば増えるほど、私の感じることができる世界が増えたように思えた。辛いことがあればそこへ逃げ込み、楽しいことがあればその世界とともに思い出を噛みしめた。

 

 

 

 

 

 

8GBのiPodに入りきっていた私の音楽は、今や64GBにも入りきらないほどになっている。それだけ私が新しい曲を探し、出会ってきた証なのだろう。

今でもiPodとイヤホンは常に私の手の届くところに置いてあり、いつでも聴けるようになっている。

だがそれはあの頃のような世界からの逃避のためではなく、「この曲を聴きたい」というふとした気持ちにすぐに応えられるようにする為のものだ。

 

 

 

音楽には思い出が記憶される、と何かで見たことがある。昔聴いてた曲を聴くと、その時の風景や気持ちが蘇ってくるという意味のその言葉は、私の聴いてきた曲にも当てはまると思う。鬱の影響なのか高校を中心とした過去の記憶はほとんど思い出せないのだが、それでも音楽を聴くと様々な出来事や情景が去来する。欠けた記憶を思い出させてくれるピースの一つが音楽になっているのだ。

 

 

子供の頃は嫌悪の対象だった音楽が私の話の種となり、時には私を守る盾となってくれた。そして今は私の人生に必要な要素の一つとなってくれている。

今聴いているこの曲に、私はこれからどんな思い出を付け加えることが出来るのだろう。そう思いながら私は今日も新しい曲との出会いを求めていく。

 

今でも中3の時に買って貰い、高校卒業まで使い続けたiPodは捨てずに手元に持っている。

まるで戦友のように思えて、どうしても手放すことが出来ないのだ。

あの日々の全てを共に過ごしたのはこのiPodだけだから。